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『高度一万メートルからの眺め』 連載 15 回??

自意識と社会の結節点としてのファッション

月刊『GQ』 2011/07月号

要約:ファッションは、自意識の表現でもあり社会的帰属の表現でもあり、いろいろむずかしいのです。


 ファッションというのが持つ意味合いというのは、簡単なようでむずかしい。衣服が単に機能だけで選ばれているのではないことは、言うまでもないだろう。ぼくたちはある社会的な立場や地位や所属を示すために何らかの服を着る。ビジネスマンがスーツを着るのは、ビジネスマンであることを示すための信号だ。ぼくが途上国にでかけて現地の服を着る(ことがある)のは、それが快適なことが多いのと同時に、あなたの文化に関心があり敬意を表しています、少なくともあなたがたと同じ立場に立とうという努力をしています、というメッセージを送る手段だ。

 その一方で、なぜスーツを着ることがビジネスマンであることを意味するのか、と言われると……別に理由はない。いや、まったく理由がないかといえば、歴史的にああいう経緯があって、こういう動きの名残があって、というようなことは言える。でも、暑いしクールビズでいいことにしようじゃありませんか、ということになれば、別にそれでもビジネスマン扱いはしてもらえる。どんな服装に何の意味があるかは、実は往々にして特に大した根拠はない。世間的なお約束ごとだ。そして本誌のようなファッションを扱うメディアというのは、そうしたお約束ごとの意味づけを行うための社会的な装置でもある。

 でもこれに対し、ファッションというのはしばしば、自分自身の表現だとも言われる。これは通常、自分自身の地位や立場を表現するもの、という意味ではないことが多い。なんだか社会性から離れた「自分」なるものがどこかにあって、服がそれとマッチしているとかいないとか。むろんその「自分」というのは、しばしばよく見れば、別の社会集団への帰属だったりするのだけれど。

 こんなことを考えているのはちょうど、山本耀司がなぜか岩波書店から出した本(『My Dear Bomb』) を読み終わった頃に、かれがフランスの勲章をもらって話題になったりしたからだ。山本耀司は当然のことながら、ファッション業界の一部にいる人として、そういう社会的な意味づけを十分に知っている。でもかれは、それを意識していないかのようにふるまうし、またそうした意味づけから逃れるデザインをかれは志向するようにふるまう。

 それが本当に逃れられているか、というのはまた別の問題だ。ヨージヤマモトを着るような人々というのは、それはそれで社会の別の意味づけ(それも結構強い意味づけ)を持つ。逃げようとしてはまた捕らわれ、意識しないこと自体をまた意識せざるを得ず……

 そうした自意識の無限スパイラルみたいなファッションのあり方に、ぼくは縁がなかったけれど、かれに対する高い評価はまさにその部分にあると思うのだ。個人的には、どうせ逃げられないのであれば、むしろ適当なところで折り合いをつけて落ち着く服のほうが気楽でよいとは思うのだけれど。でもときに、そうした観念的な服のあり方も理解はできるのだ。さて本誌の各種ファッションを見て、あなたはいったいどういう自分を描き出そうとするのだろうか。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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