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『高度一万メートルからの眺め』 連載 15 回??

積ん読は何のため?

月刊『GQ』 2010/06月号

要約:本を捨てるのがいやなのは、積ん読が実は時間をためこもうとする行動だからだという説がある。


 本を捨てるのを嫌う人がいる。先日もネット上の議論を読んでいると、ある人が何かの本についてでたらめな発言をし、その訂正を求められると「その本は捨てたから確認できない」という姑息な言い逃れをしていたんだけれど、その論争相手は(それまできわめて冷静でまっとうな議論を展開していたのに)、本を捨てるとは見下げ果てたやつだ、本を書いた人の努力や苦労がわからないのか、というへんてこなことを言い出していて、びっくりさせられた。

 ぼくは本は平気で捨てる。特に移動中は、捨てると荷物が軽くなるのでお奨めだ。必要なページだけ破り取って捨てることもざらだ。でも、駅や空港でそれをやると、まわりの人がぎょっとしたような顔をすることが多い。文庫本くらいなら、捨てたり破ったりしてもそんなに注目はされないけれど、ハードカバーの本でそれをやると、まじまじという感じで凝視されることもある。

 なぜ多くの人がそれを異様な許し難いことだと思うのかは、よくわからない。さっき挙げた人のように、本は著者の苦労が云々、という話は聞く。でもそれを言うなら、チラシだって、ビールの空き缶だって壊れたテレビだって、サイズのあわなくなったシャツだって、みんなだれかが苦労した汗の結晶だ。それでも、使い終わったら、あるいは使えなくなったら、そういうものは捨てるのが当然だ。

 モノではなく人々の智恵の直接的な産物なんだから、というような議論もあるけれど、それも変な話だ。ビールの缶にこめられた人々の叡智は、無内容な新書なんかをはるかに凌駕している。それなのに、他のゴミは平気で捨てる人でも、本はなかなか捨てない。多くの人は、二度と読まないであろう本の山をためこんでしまっている。

 これは昔からあったことだ。明治の知識人は、本はおろか活字の印刷された紙を踏むことさえ嫌がったという。でも、当時は本はいまよりはるかに希少なものだった。いま、そんなことをする理由はない。捨てないでとっておけば、いつかまた読むかも知れない、と言う人もいるけれど……そんなことが絶対ないのは、その言っている当人がいちばんよく知っていたりするのだ。

 なぜこんなフェティシズムが生じているんだろうか。

 哲学者としてはえらかったが、経済学者としては何の実績もないのになぜか欧州中央銀行の親玉になり、まともなことが何一つできなかったジャック・アタリという人がいる。実はかれはこの件について、ちょっとおもしろい説をとなえているのだ。人は絶対に読み切れないほどの本や二度と読み返すはずのない本を貯めておくことで、いつかこれを読む時間ができるかもしれないという、バーチャルな時間の貯蓄を行っているんだ、という。もし読んだら実現したかもしれない、各種の可能性をストックしているのだ、と。

 つまり、本を捨てるということは、そうしたバーチャルな脳内時間や、あったかもしれない可能性を捨てるに等しいのかもしれない。そしてこれは、本以外のものにも適用できる。絶対に観たり聴いたりしないだろうCDやDVD、着る機会があるかもわからないスーツやアクセサリー、使わない電子ガジェットや、なかなか乗らない車。それを持っていることで、人はバーチャルな時間や可能性を持てたつもりになるのかもしれない。

 ただ、どっかで人は、その時間や可能性がどこまで現実のものなのか、考える必要がある。いったい自分はどんな可能性があると思っているのか、一度自分のため込んでいるものを見直してみないと。そして本の場合、ぼくは一度でその本のすべてを見切り、すべてを吸い尽くす吸血鬼のような読み方をしないとダメだと思う。一度読んだら、その本は自分にとってもうひからびた抜け殻と化し、もはや何のためらいもなく捨てられるようになる、そんな読み方をしないと。そうはいいつつ、ぼくも家に数千冊を未だに抱え込んではいるのだけれど……



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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