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『高度一万メートルからの眺め』 連載 15 回??

才能と努力

月刊『GQ』 2010/05月号

要約:成功は、努力だけでもなく才能だけでもなく、運だけでもなく、いろいろむずかしいがまあ新人どもがんばっておくれ。


 いまこれを書いているのは4月一日の新年度初日。新聞(のネット版)ではあちこちの企業で入社式の様子などが報道され、うちの会社もどっかで入社式をやっていて、社長の話をみんなまじめに聞いたりしているんだろうなあ。

 多くの人は、そのときはいろいろ努力しようと誓いをたてる。もっと勉強しよう、仕事をばりばりやろう、運動もしよう……でも、もちろんぼくも読者のみなさんも知っていることだけれど、職場に配属されて一ヶ月もしないうちに、そんな誓いはいつの間にか忘れ去られ、語学や経済学の教科書はほこりをかぶり、仕事も山積みで、追われてやっつけでこなすのが精一杯。

 時間があっても、ついテレビを見たりネットを眺めたりして無駄に使ってしまう。「でも仕方ない、オレ、そこまで能力高くないもん、いまが精一杯だよ」と言ってあきらめる。そしてそうならない人を見て「あいつらはもともとのできが違うからなあ、才能あるし」と評するのが通例だ。みんな、そんな体験はある。

 が、こないだ訳し終わった本によると、それはまちがっているのだ、という。才能だの「もともとのでき」なんてものはない、すべては努力だ、とのこと。同じことをマルコム・グラッドウェル「天才!」も述べている。十年かけて一万時間がんばれば、どんなことでも成功する。天才や神童と呼ばれる人も、実は見えないところでものすごい練習を積んでいるのだ、と。

 だから著者は、とにかくがんばれ、という。才能なんていう迷信のおかげで世の中は悪くなっている。「才能がないから」といってみんなあきらめてしまうけれど、そんな迷信を信じないでがんばり続ければ、みんなもっと高い傑出した水準に到達できるんだ、と。

 むろんその著者は、そう言っているだけじゃなくて、それを実証する多くの研究を示す。才能などまったくなかった普通の人でも、訓練により傑出した能力を発揮できる、と。うーん。

 でもどうなんだろうねえ、とぼくはそこらを歩いている新入社員らしき人々を見ながら思う。才能が迷信だとしても、その迷信に救われている人は多いんじゃないか。だって、よく言われるように、人並み外れた努力ができること自体、ある主の才能なんだもの。すべてが努力だと、逃げ場がなくてあまりにきついんじゃないだろうか。

 実はもう一つ成功を左右するものがあって、それは運と偶然だ。成功する人は努力がいるが、それは他人に言われてやる練習や努力ではだめなんだって。身を入れて自分のものとしてやらなきゃだめだと。そして人が何かやる気になるきっかけというのは、まったくわからない。だれかのふとした一言、テレビから流れてきたちょっとしたニュース。たまたま自分の家の近くにあった練習場。でも、同じものを見聞きしても、それですごい努力を始める人と、そうでない人もいる。その差は……なんだろう。

 そして「8マイル」のエミネムじゃないけど、努力を本当にいつまでも続けるのがいいのか。どっかで見切りをつけて、現実的に生きる道を選ぶべきじゃないのか。ぼくはそのために、才能というのはそこそこいい口実だとも思ってはいるんだが。「努力さえすれば」というけれど、それができないからみんな苦労するのだ。そして努力できないのは、我が身を振り返っても、どう考えても才能という迷信のためじゃなくて、単に面倒だからだ。その現実を正当化するために才能という神話(もし本当に神話なら)が生まれたんじゃないか。

 とはいうものの、入社式を終えたらしき新入社員どもを見つつ、こいつらがみんな努力を重ねてがんばってくれることを、ぼくは本気で祈ってはいる。だってそうなれば、ぼくがもう少し楽ができるからなんだが……もちろんそんなうまい話がないことも、ぼくは年寄りなので十分に知っているのだけれど。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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