
世界システム論は学派としてはさほど有力なものではなく、経済学全体から見れば新マルクス派の一部としてのみ意味を持つ。しかし、一方でこの学派はかなりの通俗的人気を持っている。このため少し別枠で述べておく価値はあるだろう。
世界システム論は、ある意味でイマニュエル・ウォーラーステインの一人学派であるとすらいえる。ここ数十年にわたり、かれがこの学派の筆頭格であり、理論的にも派閥的にもウォーラーステイン以外に目立つプレーヤーはいないと言っていい。
この学派は、フェルナン・ブローデル/アナール学派の地中海研究や資本主義の発展史を直接の先人としている。その意味でフランス歴史学派の後継学派といえないこともない。資本主義の発展プロセスにおいては、単に市場に参加者が参加することで一気に資本主義が形成されたわけではない。多くの要因が相互にからみあい、その複雑さを増してきたこと、そしてその過程でそれまでは世界市場に組み込まれていなかった地域や産業などが、各種の技術的な発展や制度の整備に伴って次第にその網の目に含まれるようになってきたことが指摘される。すなわち、資本主義は単に抽象的な売り手/買い手の寄せ集めとしてではなく、高度なシステムとして存在しており、絶えず発展を続けている。これが世界システム論の基本的な主張である。
確かに世界経済は多くの点でローカルな経済や取引が相互依存する形で存在している。したがって、全体を見ればそれがシステムとして存在しているのはまちがいないことである。しかし世界経済システムだったらどうなのか? そしてそのシステムはどんな特徴を持つのか?
驚くべきことに、世界システム論はこれに対しまともな答を持たない。かれらがそうした「システム」のマクロな構造として唯一持ち出すのは、新マルクス派のサミール・アミンや A.G. フランクの従属理論から援用してきた中心と周縁の構造にとどまる。世界システム論が付け加えたのは、その中心=周縁構造のさらに「外部」がある、という発想だった。資本主義は、常にその「外部」を新しい「周縁」として取り込むことでのみ成立している。これはかつての植民地が好例であり、またテクノロジーを通じてこれまで資本主義化していなかった部分が資本主義の周縁として取り込まれることもある。先進国の中にも、支配層と労働者階級、富裕層と貧困層といったミクロな中心と周縁の関係があり、市場化されていない「女」や「子供」や「移民」や「他者」が外部として存在する。これらがシステムとして制度的に維持されている、というわけである。
先輩格の従属理論が中心と周縁の関係を固定的に捉えていたのに比べれば、システムの変化の余地を認めている点で世界システム論には柔軟性がある。しかしどんな具合に変化するのか? なぜ変わるのだろう? ここでも、世界システム論は定量的な検証に耐えるまともなモデルを持たないため、何も提示できない。個別の依存関係を示す物資の流通量その他の推計で数字が頻出するために定量的な理論であるかのような印象はあるものの、それらは単に「多い/少ない」という記述に迫力を与えるための数字でしかなく、それ以上の分析に利用されることがない。それ以上のマクロな構造は、すべてが事前に決まった中心=周縁=外部の直線的な図式に収束してしまい、せっかくの複雑なシステムが何ら意味を持たない。そして変化はすべて「システムが動的に進化し続ける一過程である」というあとづけの説明以上のものはなく、袋小路に入り込んでいる。
世界システム論(というよりウォーラーステイン)はこれに対し、コンドラチェフの長期波動を外生的に持ち出して説明をつけようとする。経済がこの長期的な景気循環の影響を外部から受けて構造/システム的な転換を余儀なくされ、これが世界経済システムの絶え間ない変化をもたらす、という議論である。しかしながら長期波動の存在自体が疑問視されているため、こうした議論の説得力は低い。また長期波動は技術進歩の結果とされることが多いが、それは世界システム論の趣旨から言えば、システムが「外部」を取り込むプロセスであり、したがって内生的に説明されるべきものでは? こうしたアドホックな議論のために、世界システム論は理論的な枠組みの整合性すら失いつつある。
世界システム論は新古典派や新ケインズ派を中心とした現在の主流経済学に対するアンチテーゼの一つになってはいる。マルクス主義や反グローバリズム議論とも親和性が高く、それがこの学派の持つ大きな通俗的人気にもつながっている。日常的なモノや制度の形成史や発達史を細かく追うブローデルのアナール学派や、資本主義は制度的な裏付けを必要とすると主張するレギュラシオン学派等のフランス系学派とも強く結びついている。
結局のところ、多くの歴史学派や制度学派がそうであったように、数理的なモデルを重視する経済学に取り残された人々が「経済はもっと複雑だ」と主張するためのよりどころとして世界システム論が機能していることは否定できない。少数のエージェントを使った単純な数式やグラフのモデルに対し、「システム」という言葉が何かもっと複雑な仕組みをそのまま描き出す科学的な代替案のような印象を与えているのである。しかし残念ながら、この「システム」には、多くの人が期待するような具体的な中身が伴わず、むしろ単に「説明できない複雑なもの」という思考停止の免罪符となり果てているのが実情である。
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