カール・メンガーのウィーン学団 (The Vienna Colloquium)

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 1930 年代に数学者カール (Karl)・メンガー (経済学者カール (Carl)・メンガーの息子) が運営していた「ウィーン学団 ("Vienna Colloquium")」は数学からのさまざまな人材を一堂に集めただけでなく、物理科学、哲学、統計、経済学の人材をも引き寄せ、やがてはそれが現代の一般均衡理論を、その初期のローザンヌ学派のルーツから立ち上げることとなった。

 カール (Karl)・メンガー以外の主要な参加者としては、経済学者カール・シュレジンガーや、若きオスカール・モルゲンシュテルン、多才なジョン・フォン・ノイマン、統計学者のエイブラハム・ワルドがいる。その他の参加者としては、ウィーン在住の物理学者や数学者の詰め合わせ、たとえばクルト・ゲーデルなんかがいた。学団の刊行物は、メンガーが収集して 1930 年代に Ergebnisse eines mathematischen Kolloquiums として刊行された。

 ウィーン学団は、三つのちがった知的潮流の組み合わせだと言えるかもしれない。ウィーンサークルの論理的 positivist 哲学、ヒルベルトの「形式」プログラム、そしてオーストリア学派の経済学だ。経済学でのウィーン学団の集結点は、複数の同時に相互作用する部分を持つメタ理論的な一般均衡システムの検討だった。経済学者たちにとって、こうしたシステムのプロトタイプはグスタフ・カッセル (1918) によるレオン・ワルラス理論の復活で、その提示の仕方はその後 ワルラス・カッセル モデルとして知られている。ワルラス・カッセルモデルに対しては、フレデリク・ソイテン, ハンス・ナイサー、ハインリヒ・フォン・シュタッケルベルクが 1920 年代後期から1930 年代初期にかけて批判を行った――特に、レオン・ワルラスとグスタフ・カッセルが想定した方程式からは、負の価格や不決定性が存在しうる点についての批判が大きかった。

 ウィーン学団が示した解決策は、complementary "slackness" conditions の導入で、これを最初に提案したのはシュレジンガーだ。何度か失敗を経て、アブラハム・ワルド (1935, 1936) がついに、静的なWalras-Cassel system with inequalitiesの一意的な均衡の「存在」証明を完成させた。これはこうしたcomplementary slackness conditions を利用したもので、 weak axiom of revealed preference を導入した。ジョン・フォン・ノイマン (1937) の拡大する多セクター経済モデルは、その発想としてはワルラス的一般均衡世界よりも 古典リカード系んび近いものだったけれど、ブロウアーの固定点定理の一般化を通じて均衡の存在証明を行っている。つまり解をサドルポイントとして特徴づけたわけだ。またこの証明はプログラミングの「二重性」定理を定義づけ、slackness conditionsをあわせてもっと徹底的に活用した。

 ウィーン学団からもう一つ出てきたのは、効用理論のaxiomatization選択の理論における不確実性の導入、そしてゲーム理論の開発だった。これはウィーン学団の参加者二人、ジョン・フォン・ノイマンとオスカール・モルゲンシュテルンによって、その画期的な輪講 Theory of Games and Economic Behavior の中で検討されたもので、これが刊行されたのは二人がプリンストンにいた 1944 年になってからだったけれど、そのルーツは明らかにウィーン学団にある (たとえば ベルヌーイ期待効用仮説 をジョン・フォン・ノイマンが導入したのは、カール(Karl)・メンガー の 1934 年論文を通じてだった)。

 ウィーン学団は、1938 年のドイツ軍ウィーン侵攻に伴って解体し、そのメンバーのほとんどは亡命してイギリスやアメリカに散った。二度と再結成されることはなかったけれど、その研究プログラムのかなりの部分は、1940 年代と 1950 年代に、シカゴのコウルズ委員会 がとりあげた。

ウィーン学団の参加者

カール・メンガーのウィーン学団に関するリソース


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