サラマンカ学派 (The School of Salamanca)

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サラマンカ大学校章

[Note: このページはHET ウェブサイトの一部なのだ。このページはサラマンカ大学やその他の組織とは関係がないし、また中身にお墨付きももらっていない。サラマンカ大学公式ウェブサイトを参照。]

 サラマンカ大学は、世界最古の大学の一つで(創設 1218 年)、スコラ派晩期においてはドミニコ会の有力な拠点だった。ヨーロッパの他の場所では、まずスコトゥス派や唯名論者の追撃、そして続いてはプロテスタント宗教改革によって、聖トマス・アクィナスの教義は崩壊しつつあった。でもサラマンカ大学はその時期にもトマス主義神学の要所となっていた。

「サラマンカ学派」は 1536 年頃にフランチェスコデ・ヴィトリア (Francesca de Vitoria) が創始して、最も有力な理論家としてはナヴァルス (Navarrus) や デ・ソト がいる。イエズス会三人組、レッシウス (Lessius)、デ・ルゴ (de Lugo)、そしてすばらしいルイス・モリナ (Luis Molina) もまたサラマンカ的立場にしたがい、それをさらに発展させた。

 16世紀はインフレが激しくて、神学者たちは繰り返し経済問題について相談を受けていた。特にこうした経済の混乱期における契約の立場についてきかれることが多かった。商慣行のガイドラインを設定し、公共財の現実的な考え方に焦点をあわせるべく、かれらは過去の教義から離れて、自然法の精神でこうした問題にアプローチした。結果は経済問題について、何世紀にもわたるスコラ的思考からの離脱だった。「公正な価格」というのが、自然な交換によって確立された価格以上でも以下でもない、と定義づけたのはサラマンカ学派だった。かれらの分析は、価値の希少性理論の追求につながり、需要と供給を柔軟に利用した分析となっていた。かれらはドゥンス・スコトゥスによる、生産コストに基づいた公正な価格という概念を否定した。その理由は、その価格を決める客観的な方法がないということだった。

 ボーダン (Jean Bodin) 以前だがコペルニクス以後の時期に、サラマンカ学派は独自に貨幣数量説の基本的性質を解明し、それを使って 1500 年代のインフレはスペイン領アメリカからの貴金属流入によるものだと説明した。また、利息を強く擁護する議論も展開している。

 サラマンカ理論家の業績のおかげで、フリードリッヒ・フォン・ハイエク (Friedrich von Hayek) は、マックス・ウェーバーの説がなんといおうと、資本主義の基盤を作ったのはイエズス会の教義であって、カルヴァン派の教義ではないと議論している。

[他に古代思想家とスコラ学派のページや、最初の経済学者重商主義社会哲学者のページなんかも参照。]

ドミニコ会

イエズス会

サラマンカ学派についてのリソース


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