マンチェスター学派 (Manchester School, 古典リベラル派)

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マンチェスターのニューオールの建物、反穀物法連盟の本拠

 「マンチェスター学派」というのは、イギリスの政治家ベンジャミン・ディズレーリがイギリスの 19 世紀自由貿易運動を指すのに使った呼び名だ。その運動の根っこは、リチャード・コブデンとジョン・ブライト主導の反穀物法連盟 (Anti-Corn Law League, ACLL)で、その本拠地はマンチェスターのニューオールの建物にあった。

 イギリス穀物法は 1815 年に強化されて、穀物(つまり小麦)は国内の価格が 1 クォーターあたり 80 シリングになるまで輸入禁止となった。もっと柔軟な穀物法が 1828 年に導入されて、全面禁止ではなく、変動式の輸入課徴金が定められた。これは地主には好都合だったけれど、都市住民にとっては食料価格が上がるので迷惑千万で、結果として賃金を上げなくてはならず貿易機会も制限される工業産業家にとっても不都合だった。そこで ACLL が 1836 年にコブデンとブライトによって設立され、そして議会によって穀物法をうまいこと廃止させた。

 それ以来、「マンチェスター学派」という一般名称は、経済政策における急進的なリベラリズム/リバータリアニズムを指すようになった。自由放任、自由貿易、経済からの政府の撤収、自由事業資本主義の「調和的」影響に関する楽観論の強調。結果としてこの学派は、純粋に「経済学的」というよりはかなり「政治的」な性格となった。その議論は必ずしもきちんとした経済理論に基づくわけじゃない。確かに 19 世紀初期においては、この学派を律する原理は 古典リカード学派 のものだったけれど、でも当時ですら、かれらは直感的なアダム・スミス式の需要供給議論を平気で使っていた。

 19 世紀も半ばにさしかかると、古典リベラリズムの影響力は増した。イギリスでは、それが学会を席巻することはなかったけれど、有名な雑誌や新聞、たとえばウォルター・バジョットThe Economist などのメディアを通じてかなりの影響力を得た。ジャン=バティスト・セイ、シャルル・ドゥノワイエ (Charles Dunoyer)、フレデリック・バスティアたちが創設した フランスリベラル学派や、アメリカではヘンリー・C・ケーリーやフランシス・アマサ・ウォーカーといったお仲間もいた。

 第一次世界大戦の流血沙汰と、続く経済危機は、リベラルなブルジョワ資本主義秩序に対するヨーロッパ人の信頼を揺るがした。両大戦の谷間に、リベラリズムの影響力はどん底となり、あちこちで各国は、経済や社会を組織するもっといい方法として社会主義的計画やファシスト的企業主義を採用するようになった。リベラリズムの没落は第二次大戦後も続いた。これは「ケインズ派」コンセンサスと経済開発計画の台頭期だったからだ。

 それでも、この時期を通じてリベラル派の炎は一般の議論では消えることがなかった。これを主張したのは通俗エコノミストや議員、たとえばジョン・ジュークス、ウォルター・オイキン、ヴィルヘルム・レプケ、ルイジ・エイナウディ、フリードリッヒ・A・フォン・ハイエク、ミルトン・フリードマン、マレイ・ロスバード、ヘンリー・ヘイズリット、ジェイムズ・ブキャナン、そして Mont Pelerin Societyといった組織などだ。1980 年代に「ネオリベラリズム」がアメリカとよー路一派の政策立案者を席巻するようになって、状況はかなり変わった。1991 年にソ連が崩壊してから、コンセンサスはすぐに振り出しに戻った。リベラルな政策ドクトリンは、東欧の旧社会主義諸国に輸出されただけでなく、多くの発展途上国にも採用されたが、その成功の度合いは様々だ。今日、リベラリズムは公共政策に対して影響力の絶頂期にあり、19 世紀以来の失地をかなり回復している。

「マンチェスター学派」:イギリスのリベラリズム

アメリカのリベラリズム

大陸のリベラリズム

20 世紀のリベラリズム

マンチェスター学派とリバータリアニズムに関するリソース


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