ローザンヌ学派 (The Lausanne School)

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Arms of the Canton of Vaud, Switzerland

[Note: このページはHET ウェブサイトの一部だ。ローザンヌ大学その他の組織とは一切関係がない。ローザンヌ大学公式ウェブサイトはこちら]

 「ローザンヌ学派」というのは、フランス人レオン・ワルラスとイタリア人ヴィルフレード・パレートを中心とした、新古典派の一派だ。ローザンヌ学派の中心的な特徴は、一般均衡理論を発展させたことで、経済学への新古典派アプローチの応用力を一般化して拡張した。ローザンヌ学派はまた、「数理学派」(数式表現を強調したがるので)や「イタリア学派」(初期にはイタリア人がとても多かったので)とも呼ばれる。

 レオン・ワルラスは、1870 年代限界革命の立役者の一人で、1870 年から1893 年までスイスのヴォー州にあるローザンヌ学院で教えていた。その後任となったのが、1890 年代の新古典派世代の主導者の一人であるヴィルフレード・パレートだ。両者の理論の核はまったく同じだけれど、その強調点と分析方法はまったくちがっていた。結果として、ローザンヌ学派の中でも初期の「ワルラス派」と後期の「パレート派」を区別できる。

 「ワルラス派」アプローチを提起したのはレオン・ワルラス『純粋経済学』 (1874) だ。その根本的な分析ツールは、市場需要供給の同時連立方程式の体系だ。かれは主に大きなテーマの分析に興味があった: この 体系について 均衡解が存在するか資本と成長の導入、お金の導入だ。

 でもかれのイタリア人の弟子たち、たとえばヴィルフレード・パレート、エンリーコ・バローネ、ジョヴァンニ・アントネッリなどから見ると、こうした大きなテーマよりは細部のほうがおもしろいものだった。別の言い方をすると、かれらは一般均衡体系の「ミクロ的基礎」に特に興味があった。つまり、意志決定をする家系や企業と、そこから生じる一般均衡との関係だ。結果としてローザンヌ学派の研究の方向性もちがった方向に移った。

 この新しい方向性を最も強くうちだしたのはヴィルフレード・パレートの's Cours d'économie politique (1896-7) であり、それを確立させたのはかれの Manual of Political Economy (1906) なので、これを「パレート派」段階と呼ぼう。パレート派は、均衡における個人のインセンティブと、消費者や生産者の制約との一貫性を確保するのが重要だと考えた。だから需要と消費者選好との関係分析、生産と企業の利潤最大化行動との関係分析にかれらは専念した。単純な線形方程式体系ではなく、微分解析やラグランジュ乗数がお気に入りのツールとなった。ここから彼らは壮大な「パレート派一般均衡系」を構築した――連立方程式の系にはちがいないが、エージェント理論的なミクロ的基礎がくっきりと前面に出てきたものとなっている。かれらはワルラスの壮大なテーマすべてを、独自のたった一つの新しいテーマで置き換えたことになる: 均衡の効率性と社会最適性だ。

 ローザンヌ学派は、ワルラスとパレートの取り巻き集団の外ではあまり成功しなかった。イギリスでは、マーシャル派正統教義の圧力で学会では埋もれてしまい、大陸ヨーロッパでは ドイツ歴史学派とそのフランス版を批判したためにあまり普及しなかった。アメリカに食い込む見込みもなかった。こちらの障害は、理論的な立場や入念な理想化された経済ばかりに専念していたことだけではなく、言語もあった。論文のほとんどはフランス語やイタリア語で書かれており、ほとんど翻訳さあれず、かなり僻地で刊行されていた(最も有力な媒体はイタリアの雑誌 Giornale degli economistiだった)。その論文を目にする経済学者はごくわずかだったし、目にした場合でも数式をやたらに使っていたおかげで、ほとんどの人はちんぷんかんぷんだった。

 だが、数学能力の高いきわめて有能な経済学者数名は、それに注目した。ラディスラフ・フォン・ ボルトキエヴィッチ、クヌート・ヴィクセル、ヘンリー・ムーア、アーヴィング・フィッシャーなどはワルラスの理論体系に大いに刺激を受けた。アルベール・オープチやカール・ シュレジンガーはワルラスのお金の理論について研究を続け、W.E. ジョンソンとユージーン・スルツキーはパレートの「嗜好と障害」アプローチを継続した。

 これが大きく変わったのが年代だった。1920年代にエチエンヌ・アントネッリとグスタフ・カッセルは、忘れられているワルラスの業績を復活させるべく活動を始め他。カッセルによるワルラス一般均衡体系再説は、大陸ヨーロッパで少し関心を引き起こした。ここから1930年代にカール・メンガーを中心としたウィーン学団が組織され、数学者と経済学者たちが集まって、ワルラス体系の面倒な問題点をいくつか解決しようとした。アメリカでは、アーヴィング・ フィッシャー『利子の理論』(1930) 刊行で、ローザンヌ式一般均衡体系を使ってマクロ経済問題が説明できることが示されたし、ヘンリー・シュルツはローザンヌ経済学と実証分析を結合させようというムーアの作業をひきついだ。

 だが、決定的だったのは1930 年代のパレート体系の復興だった。その主役は、ジョン・ヒックスとR.G.D. アレンによる、選好から需要を導く 1934 年の有名な論文だった。1930 年代を通じ、ジョン・ヒックス、ハロルド・ホテリング、オスカール・ランゲ、モーリス・アレー、ポール・A. サミュエルソンなど多くの学者がパレート一般均衡体系を発展させ続け、それも大半が英語で行われた。効率性に関するパレートの問題意識は「新厚生経済学」を生み出した。

 それと並行して起きたのは、たとえばケインズ革命独占的競争革命の圧力によりマーシャル派体系が崩壊してしまったこと、そしてヨーロッパの学術界がナチスに破壊されたことだった。おかげでローザンヌ派に抵抗してきた伝統的な支柱が消えた。コウルズ委員会、計量経済学会の設立、そして数学アレルギーのない学会誌 EconometricaReview of Economic Studies の創刊で、散在していた理論家たちが集まる場もできた。結果として生じた研究エネルギーの本流で、英米大学の多くの経済学部はローザンヌ学派に制覇され、そこからさらに進軍は続いた。

 1950 年代までパレート派は全盛だったが、そこでチャリング・クープマンス、ケネス・アロー、ジェラール・ドブリューコウルズ委員会により、数理経済学にちょっとした革命が起きた。ここから現代の新ワルラス学派が生まれた。その最大の業績は一般均衡理論を、もとのローザンヌ学派でのワルラス派/パレート派的な方向性を融合する形で復活させ、そこに新しい技術的なツールと視野を与えたことだった。

 最後に、ローザンヌ大学も20世紀の間に激変したことは書いておこう。もとのローザンヌ学派で見られた些末な数学的こだわりを捨て、社会学と経済学の学際領域について、フランソワーズ・ペローの路線に沿って重視するようになった。このローザンヌ学派の「第三」の方向も、ワルラスパレートの研究に連なるものだ。

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