経済発展/経済開発

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 多くの人にとって、経済発展/経済開発――つまり国の経済的な進歩の分析――こそが、そもそもの経済学の考察対象だ。だって、アダム・スミスはそもそも経済発展の「性質と原因」を見つけようとしてたんでしょ? でも現代の経済学者にとって、開発経済の状況はちょっとばかり居心地の悪いものだ。それはいつも何やら傍系で、どこか後ろのほうにはいつもいるけれど、「本物の経済学」とは思われておらず、社会学、人類学、歴史、政治、そしてあまりにしばしばイデオロギーのごった煮と思われていた。

 それでも、これをまるごと無視した大経済学者はほとんどいなかった。すでに触れたアダム・スミスはもとより、おそらく古典派は一人残らず、「経済開発/経済発展」と呼べるものを考察していた。シュムペーターの最初の有名な本は『経済発展の理論』(1911) だった。ドイツ歴史学派――そしてそのイギリスアメリカのお仲間たち――は十分に開発経済学の一部と見なせる。経済成長理論はすべて、開発経済学を目指しているか、あるいはその根底にあるとさえ言える。

 それでも、現在言われているような「経済開発」が本当に始まったのはようやく 1930 年代になってからだ。コリン・クラークの 1939 年の定量研究に刺激されて、経済学者たちはやっと、人類のほとんどは進んだ資本主義的経済システムの中に暮らしているわけじゃない、ということに気がつきはじめた。でも、初期の大きな懸念は相変わらずヨーロッパ、つまり戦後ヨーロッパ復興と、その東の周縁部の産業化だった。これは先駆的な 1943 年のパウル・ローゼンシュタイン=ロダンとクルト・マンデルバウム (Kurt Mandelbaum) の 1947 年の大著にもよくあらわれている。経済学者たちが本気でその関心をアジアやアフリカ、南米に向け始めたのは、第二次大戦後しばらくたってからのことだった。

 このとき重要な要因だったのが、植民地の解放だ。生活水準や制度がヨーロッパとはまるでちがう、新興国の大群に直面したおかげで、現代開発理論、つまりは成長そのものの分析だけでなく、成長をもたらし、維持して加速できる制度の分析をも含む理論が、本気で開始されたわけだ。初期の開発理論家――たとえばベルト・ホセリッツ、サイモン・クズネッツ、W・アーサー・ルイス、ラ・ミン (Hla Myint) などは、経済開発/発展を別個のテーマとして分析した初の経済学者だった。

 戦後に国際連合――そしてその周辺機関、たとえば世界銀行国際通貨基金 (I.M.F.)国際労働機構 (I.L.O.) やその他地域的な組織――ができたことも、別の重要な原動力になった。こうした機関が無数の調査を委託したことで、開発理論の学問的ではない流派が登場した。

成長と資本形成としての開発/発展

 初期の経済開発理論は、単なる伝統的経済理論の延長で、「開発/発展」を成長と産業化に同一視していた。結果として南米、アジア、アフリカ諸国はもっぱら「低開発」国、つまりはヨーロッパ諸国の「原始的」なものと見なされて、いずれはヨーロッパや北米の生活水準や制度を「発展」させられるものだ、と見られていた。

 結果として、経済開発の議論では、経済発展の「段階論」的な考え方が圧倒的になった。後にアレクサンダー・ゲルシェンクロン (1953, 1962) のおかげで有名になり、もっと粗雑にはウォルト・W・ロストウ (1960) が広めたような段階論は、すべての国が同じ経済発展の段階をたどり、いまの低開発国は単にこの直線的な歴史展開の中での初期段階にいるだけで、第一世界(ヨーロッパと北米)は後のほうの段階にいるのだ、としていた。「直線段階」理論はそれ以前にも ドイツ歴史学派が展開していたものだから、その主な提唱者がガーシェンクロンやロストウのような経済史家が多かったのも納得がいく。

 「低開発」の概念について、もっと経験的な定義を導こうという啓蒙的な試みが行われた。たとえばホリス・チェネリー (Hollis Chenery)、サイモン・クズネッツ、イルマ・アデルマン (Irma Adelman) などの試みなどだ。これらによる一般的な結論としては、確かにはっきりした「直線的な段階」はないにしても、いろんな国は似たような発展段階のパターンを示すようではあって、ただしある程度のちがいは継続できるし、また実際に継続する、というものだった。この考え方からすると、開発経済学の仕事は、低開発国がいくつかの段階をすっとばして先進国に「追いつける」ような近道を示すことだ、ということになる。

 開発/発展を産出の増大と同じことだとした初期の開発理論家たちは、ラグナー・ヌルクセ (Ragnar Nurkse) (1952) を皮切りに、資本形成が発展加速の不可欠な要素だとした。W・アーサー・ルイス卿 (1954, 1955) の名論文は、開発における貯蓄の役割を強調した。初期のケインズ派、たとえばカルドアロビンソンは、所得分配の問題が貯蓄と成長の決定要因だと指摘しようとした。現代マルクス派、たとえばモーリス・ドッブ (Maurice Dobb) (1951, 1960) も、貯蓄形成の問題に専念している。

 もちろん、貯蓄自体は政府の介入で操作できる――これはルイスが何度も述べたし、ケインズ派も主張していた。それ以前にもローゼンシュタイン=ロダン (1943) は、スケールメリットのおかげで政府主導の工業化は十分に可能だ、と論じていた。低貯蓄と低成長の「悪循環」を、政府介入によって高貯蓄と高成長の「好循環」に変えようという発想は、ハンス・W・シンガーの「バランス成長」ドクトリンの中でも主張されたし、グンナー・ミュルダール の「蓄積要因」理論でも唱えられた。したがって、政府介入――計画経済、社会経済工学、有効需要管理のいずれだろうと――こそが経済開発のツールとして不可欠だとされた。

 また、国際貿易こそが成長の大原動力だと考えた経済学者もいた。すでに ラ・ミン, ゴットフリート・ハーベルラー (Gottfried Haberler)、ジェイコブ・ヴァイナー (Jacob Viner) がこの路線を強調していた――アダム・スミスによる、貿易と専門特化が「市場の範囲」を拡大できる、という古典ドクトリンと似た議論を展開したわけだ。でも、1930 年代初期になると、 D.H. Robertson がこの主張に対する疑念を唱えた――そしてこれは後に、ラグナー・ヌルクセ、H.W. シンガー、ラウール・プレビシュによって繰り返されることになる。

経済開発の社会的側面

 資本形成が完全に否定されることはなかったけれど、このことばの意味は、時間につれてちょっと変わってきた。T.W. シュルツは、その有名なシカゴ学派の博士論文に基づいて、物理資本の蓄積から、「人的資本」形成の必要性を強調するようになった。これは成長の前提として教育と訓練を強調し、第三世界から第一世界への「頭脳流出」の問題を同定することになった(そしてもうひとつ、後に主張されるように、民間セクターから政府官僚機構への頭脳流出も指摘された)。W. アーサー・ルイスとハンス・W. シンガーはシュルツの理論を拡張して、人的資本の改善による社会開発全体――特に教育、健康、出生率等――が成長の前提なのだ、と主張した。この見方からすると、産業化は、社会開発を犠牲にして行われるものであるなら、絶対に自律的にはならない。

 でも、開発理論の成長フェティシズムを本当に打ち破ったのは、やっと 1969 年のダドリー・シアーズ (Dudley Seers) になってからだった。かれの議論だと開発は社会的な現象であり、一人当たり GDP を増やす以上の意味を持っている。シアーズの意見では、貧困や失業、不平等の削減も同時に意味している。シンガー, ミュルダールアデルマン (Adelman) は、シアーズの苦情の正当性を認めた老兵たちとして最初の人々だったし、多くの若い経済学者、たとえばマフバブ・ウル・ハク (Mahbub ul Haq) も経済開発を再定義しようと言うシアーズの呼びかけに引きつけられた。こうして二重性、人口成長、不平等、都市化、農業転換、教育、健康、失業等々はすべて独立して検討されるようになり、単に根底にある成長理論の付属物として扱われるのではなくなった。

 特筆に値するのは、百姓経済の独自構造に関するチャヤーノフ (Chayanov) の業績が再評価されるようになったことだった。同じくこの時期に台頭してきたのが、成長そのものがどこまで望ましいか、という論争だった。E.F. シューマッハーは、名高い論争的な一般書 Small is Beautiful (1973) で、産業化の望ましさを否定して、手工芸経済の利点を褒めそやした。1980 年代に世界環境危機が明らかになるにつれて、経済発展の維持可能性そのものが問題視されるようになり、この論争も新しい局面を迎えた。開発の望ましさそのものが再検討を必要としているのは明らかだった。

構造主義とその反対者たち

 シアーズの苦言以前から、多くの経済学者たちは初期の開発理論や、その「段階」理論の背後にある暗黙の想定をずいぶん居心地悪く思うようになっていた。新しい(立場によっては古い)見方が芽吹いてきた――これを大ざっぱに「構造主義」と呼ぼう。「構造主義」理論とは、手短に言って、第三世界の「独自の」構造問題に注目すべきだと述べた。この議論によれば、低開発国は先進国の「原始版」なんかじゃない。むしろ、独特な特徴を持っている。すでに述べたように、チェネリーも似たような議論を述べていたけれど、でも最終的には経験の共通性に注目した。新手の構造論者たちは逆に、ちがいのほうに注目した。発展の国別の分析が必要だと強調したのは、アルバート・O・ハーシュマン (Albert O. Hirschmann) (1958) などだった――そしてこれは、後にダドリー・シアーズも強調する点となる。

 こうした独自の特徴の一つは、ヨーロッパの産業化とちがって、第三世界の産業化は、すでに産業化した西側諸国が隣にあって、そこと貿易と結びついている状態で起こらなければならない。これは発展にとって、独特の構造問題を引き起こしかねない、と少数の人は考えた。

 H.W. シンガーとほぼ同時期に、UNCLA エコノミストのラウール・プレビシュ (Raúl Prebisch) が有名な、経済開発の「依存性」理論を編みだした。ここでかれは、世界が国同士で「中心=周縁」関係を形成したのだ、と論じた。第三世界は第一世界の工業のための原材料生産者になるよう無理強いされ、世界経済における依存的な役割におとしめられている、というわけだ。したがってプレビシュの結論によれば、こうした国が自律的な成長路線に入るためには、ある程度の保護主義が必要となる。保護貿易と政府政策による輸入代替のほうが、貿易と輸出志向よりもプレビシュのお気に召した戦略だった。政府主導の工業化、たとえば明治時代の日本やソヴィエト・ロシアなどの歴史的事例が掲げられて、粗雑な「段階」論の主張するような、建った一つの発展への道なんてものはないのだ、と主張された。

 プレビシュ=シンガー理論は、特にマルクス派の思想家に大いに人気が出た――かれらはローザ・ルクセンブルグや V.I. レーニンの帝国主義論と共鳴する部分をそこに見て取ったからだ。たとえばドッブなど貯蓄にひたすらこだわる正統マルクス派思想家、ポール・バラン、ポール・スウィージー、A.G. フランク、サミール・アミンなどの新マルクス派は、プレビシュ=シンガー理論をルクセンブルグの理論とまぜて、それを現代に引き出した。多くの第三世界政府は、1960 年代と 1970 年代に構造主義者たち and/or 新マルクス派 の言語と政策を採用して、この動きは相当な影響力を持った。「新植民地主義」「中心=周縁」「依存性」なんてのが当時の流行りことばだった。

 でも、時間がたつにつれて、こうした政策は約束の果実を実らせなかった。そして新古典派 (というかもっと正確にはネオリベラル的な) 反動が、P.T. バウアー、I.M.D. リトル、ディーパク・ラル、ベラ・バラサ、アン・クルーガー、ハリー・G・ジョンソンといった一匹狼たちの主張が支持者を集めるようになってきて高まった。かれらの主張は単純だった。政府の介入は開発/発展を改善しないどころか、むしろそれを阻害する。巨大な官僚や国家規制の台頭によって、民間投資が押さえつけられて、価格も歪み、発展途上経済はとんでもなく非効率になった。この見方によれば、バランスを欠いた成長、依存性等々はすべて、あまりに政府の経済統制が強すぎるせいであって、弱すぎるせいではない、ということになる。

 近年では、新古典理論がさらに支持を増した。これは南米で特に顕著だ。でも証拠はまだはっきりしないし議論も分かれている。構造主義者と反構造主義者たちは、どっちも極東アジアの開発と悲惨なアフリカの体験を指摘して、どっちもそれが自分たちの正反対の理論を裏付けるものだとしている。

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構造主義新マルクス派 理論

反-構造主義: ネオリベラル学派

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