ピエトロ・ヴェッリ男爵 (Conte Pietro Verri), 1728-1797

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Portrait of Pietro Verri

 華やかなミラノの貴族、官僚、啓蒙思想家。悲恋、家族との別離、深き知的危機の後で、ヴェッリは 1757 年にその鋭い諧謔に満ちた年鑑 Il gran Zoroastro で世評に躍り出た。1759-60 年にちょっとオーストリア軍に入ってから、ヴェッリはミラノに戻り、すぐに当時の イタリア 啓蒙主義者の中に加わって、特に大チェザーレ・ベッカリアと親交を深めた。ベッカリアと、実の兄のアレサンドロ・ヴェッリとともに、1761 年に "Societ dei Pugni" を設立。これは政策と経済学に関する討論グループだ。1764 年から 1766 年にかけて、このグループは偉大な啓蒙主義雑誌 Il Caffè を刊行した。

 ヴェッリは1760 年から経済問題に関する論説を刊行しはじめた。1763 年には Meditazioni sulla felicità を刊行。これは享楽的倫理に関する論考で Helvétius に沿ったものだった (それに ルソー 風味付けあり)。これによりかれは、 効用主義 の父となった。ベッカリア の背中を押して、効用主義的社会哲学への重要な貢献を書かせたのはヴェッリだ。

 Il Caffè が閉鎖されてグループが散会すると、ヴェッリはオーストリア政権でさまざまな職についた。暇を見つけて、最も有名な効用主義的論考を刊行。1773 年の Discorso と、拷問の使用を批判した 1777 年の論考などだ。

 ヴェッリの 1771 年の著書 Meditzioni sull' economia politica は、かれの経済理論への貢献として最大のものだったろう。ヴェッリは、価格は財の「見かけ上の豊富さ」とそれに対する「ニーズ」によって決まる、と論じた。かれは「ニーズ」を、人類が活動や産業を最小化するために求める苦痛の種として定義した。ヴェッリにとって、「ニーズ」とは単なる欲望ではなく、支払いによって表現されなくてはなれないので、現代でいう需要と同じものだ。ベッカリア にならって、ヴェッリは豊富さが商品提示(つまりは売り手)の数に応じて増え、「ニーズ」は買い手の数に応じて増えると指摘。また商品の価値は、ニーズに比例して豊富さには反比例するとした。この意味で、ヴェッリは限界革命 の重要な先人と見ることができる。

 ヴェッリの定量研究は、経常収支の計算に関する見事な試みだけでなく、需要曲線の初の数学表現も含んでいる。経済政策の面で、ヴェッリは重農主義者たちの唱えた過激な自由放任主義を支持した。おもしろいことに、かれは ヒューム の「還流 (reflux)」原理を否定し、経常収支の調整は価格を通じてではなく、経済全体の活動水準の変化を通じて生じると論じた (つまりかれは初期の ケインズ派 でもあった)。

 オーストリア政府の官僚として、ヴェッリは多くの経済改革や制度改革を進めようとしたが、ほとんど成功しなかった。1772 年には Chamber of counts の副presidentになり、その後 1780 年にはpresidentになる。1786 年に引退して、フランス革命を見るまで生き延びた。

ピエトロ・ヴェッリの主要著作

ピエトロ・ヴェッリに関するリソース


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