ジョナサン・スウィフト (Jonathan Swift), 1667-1745

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 イギリス古典時代における有名なアイルランドの詩人、パンフレット発行者、風刺家、機知者。ダブリンのトリニティ大学で(おおむね)教育を受けた。1689 年のアイルランドにおけるジャコバイト反乱の後で、スウィフトは有力な外交官兼議員ウィリアム・テンプル卿の庇護を受けてイギリスに逃れる。続く十年、スウィフトはテンプルの秘書を務めた。その間、オックスフォードで学士号を取り、アイルランドのエピスコパリアン教会の司祭となり、テンプルの若き被後見人エスター・ジャクソンこと「ステラ」の家庭教師となる。

 テンプルが 1699 年に没し、スウィフトはアイルランドに戻って、教会の各種役職に就いた。1704 年に書いた風刺小説二編―― Tale of the TubBattle of the Books――のかげで、ある程度の名声(とある程度の敵)を獲得。ときどきイギリスに戻る中で、イギリス古典時代の機知者や文人たちと仲良くなる――アディソン、スティール、ポープ、コングリーブなど。

 生涯ホイッグ党支持者ではあったが、ホイッグ党と教会との対立が高まる中で、スウィフトは 1708 年にホイッグ党に対して一連のパンフレットによる攻撃を開始する。1710 年には、スウィフトは完全にトーリー党に乗り換えて、その才能をトーリー党のために縦横に活用する。スウィフトはトーリー派雑誌 The Examiner を乗っ取って、1711 年のパンフレット数枚によってイギリス世論を「ホイッグ」のスペイン succession 戦争反対に向ける。

 アン王女が 1714 年に死んで、トーリー党は第一党でなくなり、スウィフトはアイルランドに戻った。その後一生を、ダブリンの聖パトリック大聖堂の司祭長として過ごす。その後数年は、辛辣ながらもおとなしくしていた。

 1720 年にかれはその説教壇から降りてきてまた多忙となった。1720 年の Irish Manufacture エッセイは、アイルランドに対するイギリスの経済政策を攻撃し、イギリス製品ボイコットをうながした。このパンフレットは後にイギリス政府から扇動的だと見なされた。 Swearer's Bank (1720) は、アイルランドの小商人を助けるための銀行を設立しようという提案だ。かれの俗悪な 1724-5 年の一連のパンフレットは、Drapier's Letters として知られ、ウッドの半ペンス打倒につながった。これはホイッグ政府による、アイルランドの効果不足を銅のコイン鋳造で補おうという計画だった。1727 年と 1728 年のアイルランドの状態に関するエッセイは、イギリス経済政策がアイルランドの低開発状態と貧困におとしめていることを説明したものだ。このアイルランド経済の状態に関する研究の集約が、意地悪くておもしろい『慎ましき提案』 (1729) だ。イギリス政策に対する反感が最もはっきり出たのは Injured Lady (1746) だった。あ、それとだね、かれはまたあの風刺の大傑作『ガリバー旅行記』(1726)まで書く時間をひねり出したのだった。

 愛するステラの死後、スウィフトは元気をなくし、晩年はだんだん精神的に不安定となって、1745 年に没した。アイルランドの愛国者、およびホイッグ党政策に対するトーリー党からの批判者としての役割を果たしたスウィフトは、ウィリアム・バトラー・イェイツの詩「七賢人」および「スウィフトの墓碑銘」でちゃんと褒められている。

ジョナサン・スウィフトの主要著作

ジョナサン・スウィフトに関するリソース


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