ジョセフ・A・シュムペーター (Joseph A. Schumpeter), 1883-1950.

原ページ
 
Google
WWW 検索 cruel.org 検索

Photo of J. Schumpeter

 オーストリア・ハンガリー帝国の末期の産物たるジョセフ・A・シュムペーターは、その伝統の見本のような人物だった。オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクとフリードリッヒ・フォン・ヴィーゼルの弟子ではあったが、シュムペーターはオーストリア学派の尖兵だったことはないも同然だ。

 ウィーンで手っ取り早く博士号を取ったシュムペーターは、腰の据わらない弁護士とでも言うべき存在としてうろつきまわってから、1909 年に学界に復帰したチェルニウツィー (現在はウクライナの一部) で教えているときに『経済発展の理論 (1911) を書き、有名な起業家精神の理論の概要を述べている。こうした恐れ知らずの起業家たちが、競争と利潤低下に直面しても技術的、金融的なイノベーションを生み出す——そしてこうした活動の奔流が(不規則な)経済成長を生み出すのだという。

 二作目 (1914) を書き終えたのは、グラーツにいたときで、ちょうど第1次大戦が勃発——シュムペーターはこれに反対していた。戦後、シュムペーターはベルリンのドイツ社会主義評議会に参加——当時この評議会はマルクス派の学者数名 (たとえば ヒルファーディンクカウツキー) と、キール学派経済学者 (たとえば ロウレーダラーなど) が参加していた。

 1919 年にシュムペーターはオーストリアの財務大臣になった——かわいそうなことに、当時はハイパーインフレで、その年末にはクビになる。グラーツでちょっと教えてから、シュムペーターは 1921 年に民間に移り、小さなウィーンの銀行の頭取になった。が、不運は続く。1924 年にその銀行は破綻。かれはまたもやうろついて学界に戻った——そして 1925 年にはボンで教師になった。

 1932 年にシュムペーターは、マーシャル派のF.W. タウシグの後釜でハーバード大に就職した。同僚にはアルヴィン・a href="../profiles/hansen.html">ハンセン、ワシーリー・レオンチェフ、リチャード・グッドウィン、ポール・スウィージー、ジョン・ケネス・ガルブレイス、そして同郷オーストリアからはゴットフリード・ハーバラーがいた。シュムペーターは 1930 年代と 40 年代の「恐慌世代」にハーバードを牛耳った——サミュエルソントービン都留ハイルブローナーバーグソンメッツラーなどがその生徒となる。

 シュムペーターは何よりも傑出した教師だったが、それでもハーバード大にいる間、もう三冊本を書いた。説教じみた『ビジネスサイクル』 (1939)、人気の高い『資本主義、社会主義、民主主義』(1942) ——ここでかれは、インテリたちによって資本主義が没落すると予言したのは有名だ——、百科事典じみた『経済分析の歴史』 (1954)だ。最初の二冊では、起業家の理論と 成長理論を拡張して、資本主義の発達に関するもっと広い理論にして、それを ビジネスサイクル理論と社会経済進化と組み合わせた。

 シュムペーターの遺産を評価するのはむずかしい。ワルラスローザンヌ学派を絶賛したものの、ほめる以上の貢献はしていない。 ドイツの歴史学派に対する「手法論争」の論陣を張り、メンガーを擁護したが、他のオーストリア学派たちはとっくにかれを仲間扱いしなくなっていた——そしてベルリンとウィーンでのかつてのマルクス派たちはもちろん、この保守的な性向を持つ人物を仲間などとは思わなかった。また理論的には、初期の起業家に着目した「創造的破壊」の概念は有名で未だに霊感を与え続けているが、定性的なものにとどまり、晩年のビジネスサイクルの議論はいまやほとんど顧みられることもない。

 フランク・ナイトと同じく、シュムペーターはぼくたちの区分では分類不可能な人物だ。そんなわけで、とりあえずかれには、「進化的」経済学の始祖という称号を与えることにしよう。なぜならかれは、個人と経済全体との相互作用でもたらされる経済的な「変化」に注目していたからだ。この関心は社会経済史や制度についてのものではあったが、それが資本主義の発展について、基本的に理論面での探求を阻害することはなかった。

ジョセフ・A・シュムペーターの主要著作

ジョセフ・A・シュムペーターに関するリソース


ホーム 学者一覧 (ABC) 学派あれこれ 参考文献 原サイト (英語)
連絡先 学者一覧 (50音) トピック解説 リンク フレーム版

免責条項© 2002-2004 Gonçalo L. Fonseca, Leanne Ussher, 山形浩生 Valid XHTML 1.1