ジョーン・ロビンソン (Joan Violet Robinson,) 1903-1983.

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 ジョーン・ロビンソンは20世紀最大の経済学者の一人だ。彼女は「ケンブリッジ学派」の形をほぼすべて作り上げ、1936年前後は最先端のマーシャル学派でありケインズ派としても最初期かつ最も熱心な人物で、またネオリカード派および ポストケインズ派の指導者でもあった。ロビンソンの経済学に対する貢献はあまりに多すぎるため、公平に記述するのは不可能なほどだ。ほとんどの経済学者とはちがって、彼女は「アイデアの一発屋」ではなく、経済学のまったくちがう各種の分野に対し、無数の根本的な貢献を行ったのだった。

 彼女は元の名をジョーン・ヴァイオレット・モーリスと言う。その家庭はなかなか騒々しいものだった。父の少将フレデリック・バートン・モーリス卿は、国会と国を第1次世界大戦中に騙したといってロイド・ジョージ首相を糾弾して悪名を高めた。彼女はケンブリッジのガートンカレッジで経済学を学び、卒業直後の1925年に若き経済学者オースチン・ロビンソンと結婚。1926 年にロビンソン夫妻はインドにでかけ、ジョーンはイギリスとインドの経済関係を調べる研究委員会に参加。二人は 1929 年にケンブリッジに戻った。

 1930年代のジョーン・ロビンソンはケンブリッジで教鞭を執り、本を三冊と無数の論文を刊行し、ジョン・メイナード・ケインズの「サーカス」に参加、イギリス労働党の活動に参加しつつ、さらに暇を見つけて娘を二人産んでいる。1937 年には専任講師 (full lecturer) となった。

 ロビンソンの初期の研究は、新古典派を根本的に拡張するものが多かった。費用の理論に関する 1941 年の論文は、逆説的なことだが新古典派の 一般均衡理論 がピエロ・スラッファの批判 (1926) をかわすのに貢献してしまった(ヴァイナーが大絶賛したのはそのせいだ)。 新古典派の分配の限界生産性理論に関する解説論文 (1934) も、立派な主流論文だ。

 だがジョーン・ロビンソンは当初から問題児でもあった。有名な 1933 年の著書で、彼女は経済学に 不完全競争の理論を導入し、さらにこれについて説明論文 (1934) を書いた。 E.H. チェンバレンも独立に類似の理論に到達していたので、ケンカに持ち込もうと頑張ったが、ロビンソンには相手にされなかった。不完全競争の理論は現代の教科書でも採り上げられているのに、彼女はすぐにその理論から先に進んだのだった。

 急な転向を引き起こしたのは J.M.ケインズ『一般理論』だった。この大著が書かれる間にケンブリッジでケインズの「サーカス」に所属していたロビンソンは、はやい時期にケインズ理論の忠実な解説 (1936, 1937) を発表した。

 カレッキに触発されて、ロビンソンはやがてカール・マルクスの著作に取り組み始める。労働価値説にはあまり感心しなかったロビンソンだが、その Essay on Marxian Economics (1942) は先駆的で新鮮、洞察に満ちて批判的、そして何よりも、マルクスを経済学者として真面目に扱おうという初の試みの一つだった。それは実質的に、マルクス派経済学を、政治論争の中の退屈で一知半解的な存在からすくい上げるのに貢献した。

 1940年代と50年代にも、彼女は精力的に活動を続けた。第二次世界大戦中には、労働党と政府のために各種の経済委員会に参加した。またソ連、中国、セイロンを何度か公式訪問している。1949 年にはケンブリッジ大学で reader となった。有名な事件として、彼女は1950年代初期にラグナー・フリッシュが、計量経済学会の副会長にならないかと招聘したのをことわった。その理由は、当人によれば、自分で読めない雑誌の編集委員にはなれない、とのこと。

 1956年には大著 The Accumulation of Capital を著した。これはケインズ理論を拡張して、長期的な成長と資本蓄積の問題を扱えるようにしたものだ。さらに成長理論についてのもっと詳細な検討 (1962) も行い、カンタブリッジ派の同志たるニコラス・カルドアと協力して各種「黄金時代」の成長経路(黄金速も含む)の考え方の基盤が提示された。二人は後に「ケンブリッジ派成長理論」と呼ばれるものを共同で開発した。

 資本に関する彼女の研究は、資本蓄積から生じる問題の検討 (1954) で始まり、Accumulation of Capital (1956) での "Ruth Cohen Curiosum" 検討がそれに続いた。スラッファ (1960) とロビンソンを基盤として ネオリカード派の「古典派復興」は一大騒動を引き起こした——これがケンブリッジ資本論争で、彼女はアメリカのネオケインズ派に対するケンブリッジの攻撃で先鋒となった

 晩年のロビンソンは、経済学の手法的な面にもっぱら専念した (特に「均衡」理論についての不満は強調した)。そしてケインズ『一般理論』の本来のメッセージを強調しようとした。一般向けの概説書も多数書き (1962, 1966, 1970, 1971, 1978, 1979, 1980) 世間一般に対してもその名声は広まった。1971 年にはアメリカ経済学会向けに講演を依頼され、きわめて挑発的な演説を行った。ケンブリッジ学派のアプローチをもっと広く知らしめようとして、彼女はジョン・ イートウェルと共著でかなり独特な「経済学原理」の教科書 (1973) を書いたが、あまり広まらなかった。

 ロビンソンはまた、低開発国や開発途上国の問題に深い関心を抱いていた。成長理論の研究を考えれば自然なことだ。そしてその方面でも重要な貢献をしている。だが晩年には、中国の文化大革命をあまりに大絶賛しすぎたために、敵味方を問わず多くの人を赤面させた。

 ロビンソンはイギリス王立アカデミーに1958年に参加、1962年にはニューンハムカレッジのフェローに選出された。1965 年にはやっとガートンカレッジで正式な教授とフェローになった。1979 年にはキングスカレッジ初の女性フェローとなる。彼女がノーベル賞をもらえなかったのは、現代経済学会における最も悲しい「見過ごし」の一つだとされる——あるいは、もっとも悪質な、意図的な黙殺だとする人もいる。それでも、本当の「賞」はノーベル賞などよりずっといいものだ。他の有力な経済学者たちがどんどん忘れ去られる中、ロビンソンの伝説的な業績は、分析面でも着想面でも経済学を刺激し続けている。その著作の多様性と分量を見るだけでも、ジョーン・ロビンソンが経済学理論に対して与えた影響の深さと広さを、何よりも雄弁に物語ると言えるだろう。

ジョーン・ロビンソン主要著作

ジョーン・ロビンソンに関するリソース


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