カール・ポランニー (Karl Polanyi), 1886-1964

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 カール・ポランニーの一生は、実質的な流浪生活だった――居心地のいい教授職を得たこともない――この放浪経済史家は、それでも象牙の塔の同時代人たちに対して強い影響を与えた。ポランニーはウィーン生まれのブダペスト育ちで、学生時代にはジェルジ・ルカーチやカール・マンハイムといった天才過激派たちの集団に参加。第一次世界大戦中にロシア戦線で捕虜となり、釈放されるとジャーナリストとしてウィーンに帰還した。1933 年にイギリスに移住し、英語教師としてその日暮らし。1940 年に、アメリカの講演旅行中に、ポランニーはベニントン大学からの招きを受けることにした。ここでかれはその大力作『大転換』(1944) を書き上げた。

 ポランニーの中心的な理論は、社会学者や経済史家の間では有名だ。つまり、資本主義は歴史的に見て異常な存在だ、ということ。それまでの経済的な仕組みは、社会関係に「埋め込まれ」ていたけれど、資本主義では、その状況が逆転している――社会関係のほうが経済関係によって規定されている。ポランニーの見方では、人間の歴史の中では市場関係なんかよりも相互関係、再分配、共同体の義務なんかのほうがずっと頻繁だった。でも、資本主義はそうした様子を見せないどころか、その台頭によってこうした関係は後戻りできないほどに破壊された。産業革命の「大転換」は、あらゆる相互関係のあり方を市場で置き換えてしまうことだった。

 この「台頭」の詳細も、ポランニーのもう一つの主要業績となる。ポランニーの議論によれば、資本主義は「自然」でも「必然的」でもなくて、新興商人や当時のブルジョワ階級が国に対して、自分たちの弱々しい事業や不安定な社会的地位を保護しろと求めた要求から生じたものなのだった。こうして政府は資本主義の産婆となり、必要な法制度と、実質的な軍によるその施行によって資本主義の成長を助けたわけだ。

 ある意味で、ポランニーの理論はマルクスの理論と共通性を持っていたけれど、でもそれはドイツ歴史学派の烙印のほうが明確だとも言える――特に後期ヴェーバージンメルとの類似が大きい。もちろんかなりの部分は、社会学者や経済人類学者、たとえばデュルケム、マリノウスキー、テュルンヴァルト らにも負っている。ポランニーの業績はいまでもこの分野の古典とされる。一方、ノースフォーゲルらの新経済史一派は、ポランニーとまさに正反対の主張をしている――つまり、市場理論は経済史のあらゆる時代に普遍的に適用できる、と主張しているわけだ。

 1947 年に、コロンビア大学の社会学部が、1944 年の『大転換』を理由にかれを教授陣に招いた。でもその過激派の妻 Ilon Duczynska が、1920 年代初期に失敗したハンガリー革命で大きな役割を果たしていたために、アメリカの入国査証がおりなかった。結局ポランニーはカナダに引っ越して、トロントからニューヨークにその後ずっと通勤し続けた。コロンビアでの学際的な仕事は、ずいぶんとかれのためになった――第二の優れた著書 Trade and Markets in the Early Empires (1957) をまとめたのもこの時期だった――けれど、ポランニーはその後一生にわたり、補助教授としての客員でしかなかった。その驚異的な大陸を横切る通勤や、その政治的・知的独自性は、かれをコロンビアのアカデミック環境からも孤立させることとなる。もっと地位の確立した弟、化学者兼哲学者マイケル・ポランニーとちがって、カール・ポランニーは決して根を下ろすことがなかった。かれは永遠の追放者のままだった――ハンガリーから、オーストリアから、アメリカから、そして最後には学会すべてから。

カール・ポランニーの主要著作

カール・ポランニーに関するリソース


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