ジョン・F・ナッシュ (John F. Nash), 1928-

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Photo of J. Nash

 21 歳のジョン・ナッシュが戦略的非協力型ゲームにおける「ナッシュ均衡」を述べた 27 ページの博士論文を書いたとき、その影響は膨大なものだった。形式的な面では、ナッシュの存在証明は角谷の不動点定理の初の応用だった。角谷の不動点定理は、後の世界中の新ワルラス派が貪欲に使うことになる。概念面では、かれは非協力ゲーム理論に関する文献を大量に生み出して、これはその後すさまじい勢いで増殖している――一部の人は、それが経済学そのものを飲み込もうとしているとさえ主張している。

 若きナッシュが 1948 年にプリンストン大の大学院に応募したとき、カーネギー工科大学の恩師 R.J.ダフィンは、推薦状に一行しか書かなかった:「この人物は天才です」。プリンストンでナッシュは、当時ジョン・フォン・ノイマンとオスカール・モルゲンシュテルンが立ち上げたばかりのゲーム理論に出会った。でもノイマンとモルゲンシュテルンは、「純粋競争」(つまりゼロサム)の非協力ゲームの場合しか解いていなかった。若きナッシュは、相互に利得のある競争について考えた。かれの技は、 best-response 関数と、最近登場したばかりの理論――角谷の不動点定理――を使うことだった。その主要な結果「ナッシュ均衡」は 1950 年に Proceedings of the National Academy of Sciences で刊行された。続いてかれは、別の解決策の考え方を導入した――今回は2人協力ゲームにおける「ナッシュ交渉解」(NBS) (1950) だ。1951 年の論文は、かれの名前を経済学の別の分野に掲げることとなる――今回は「ナッシュ・プログラム」で、これはすべての協力ゲームを非協力ゲームに還元しようという主要的な方針を反映している。

 かれの数学に対する貢献も、同じくらいめざましいものだった。学部時代にかれは、知らないうちに(そして独立に)ブラウアーの不動点定理を証明した。後に、かれはリーマンの最もややこしい数学上の難問を解決した。そこから、ナッシュは数学において、次々にブレークスルーを実現した。

 1958 年、キャリアの途上で、ナッシュは偏執狂型精神分裂症に襲われた。1959年には MIT での職を失い(1958 年に若干29歳で終身職についたばかりだった)、そしてその後20年かそこらにわたって、この病気にとらわれたままとなった。ヨーロッパとアメリカを放浪したあげくに、最後にプリンストン大学に戻ってきて、キャンパスの悲しい幽霊のような人物となった――レベッカ・ゴールドスタインが小説『心身問題』で呼んだように「ファインホールの怪物」となって。

 病気は 1970 年に消え始めて、ナッシュはだんだん数学問題に戻ってきた。でもナッシュ自身は自分の狂気を「超論理」平面にばかり暮らし、ほとんどの人間にとっては「珍しすぎる空気を呼吸」していたからだと述べている。そして「治療」されるということが、その平面でのオリジナルな仕事ができくなるということであるなら、回復は結局のところ、それだけの価値のないものかもしれない、とナッシュは述べている。ジョン・ドライデンがかつて述べたように:

偉大な機知は、確実に狂気と近しい存在であり,
両者の区別を分かつのは紙一重。

(ジョン・ドライデン, Absalom and Achitophel, 1681)

 ナッシュは 1994 年にノーベル賞をジョン・C・ハーサニとラインハルト・ゼルテンといっしょに受賞した――それも、かれが自分の「最もつまらない業績」と呼んでいるもののために!

ジョン・F・ナッシュの主要著作

ジョン・ナッシュに関するリソース


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