カール・メンガー (Carl Menger), 1841-1921.

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 カール・メンガーは 1870 年代「限界革命」の頭目三人の一人として、ウィリアム・スタンリー・ジェヴォンズやレオン・ワルラスと並び証されている。だが 1871 年刊行のメンガーのGrundsätze (『国民経済学原理』) は、他の二人の革命家著作を特徴づけている数学的な足場をすべて避けている。このため、多くの経済学者たちはメンガーを別枠で扱うべきだと主張している。

 ある意味で、確かにかれはちがうと言える。ジェヴォンズやワルラスとちがい、カール・メンガーはまともな「学派」を構築し、これはその後もずっと独特の性質を保っている――それがオーストリア学派だ。ウィーン時代の弟子二人、オイゲン・フォン・ベームバヴェルクとフリードリッヒ・フォン・ヴィーゼルは、この学派を広めて強化するのに尽力した。

 メンガー『国民経済学原理』 (1871) はもともと、もっと大きな論考の第一巻になる予定だった――が、続きは結局できなかった。『原理』は主に限界主義的な価値理論の設定、特に主観価値を経済学すべての根底に置くことに注力している。「限界」という用語を正式には使っていないが、人々がニーズを順位づけて、財が増えるごとにその追加単位をだんだん優先度の低いニーズ満足のために使うのだと主張している。メンガーによれば、財の「価値」とはそれが適用される最も優先度の低い用途に等しくなるという。メンガーの仕組みに「限界効用の逓減」という用語を適用したのは、弟子の ヴィーゼルだった。「ニーズ」というのが計数的に計測できるとは考えていないことに注目。単に、その財をそれ以上もう一単位だけ消費したら、かわりに変えた別の財の消費で満たせたはずのニーズよりも優先度の低いニーズしか満たせなくなるまでその財が消費される、といっているだけだ――現代的に言えば、二つの財の限界効用が価格に対し等しくなるところまで、ということだ。

 メンガーの生産理論もかなり単純だ。要素財と中間財(「高次の財」)が需要されるのは、消費財(「一次財」)が需要されるからにすぎない。消費需要の主観的な決定が、こんどは生産要素の需要を決める、とメンガーは主張した。財の主観的な価値付けから、要素の価値を「帰着させる」という問題(これは古典派理論の真逆だ!)こそが、ヴィーゼルなど後のオーストリア学派の中心課題となる。

 メンガーが価格理論を説明したやり方もおもしろい。まず個人同士の純粋なぶつぶつ交換から始め、次に独占条件下を描き、それから寡占、やがて、最後に純粋競争下での状態を定式化しようとしている。

 ある「商品」の市場性に関する章、特に量と質との区別に関する部分もきわめておもしろい。また、「経済的財」(希少な財)と「非経済財」(無料の財)の区別は、後の新ワルラス派理論の中心となる。また後のオーストリア学派が強調したように、メンガーにおける時間と不確実性の要素にも留意すべきかもしれない。確かにメンガーは、価格決定の調整プロセスを持ってはいたが、勝手な「競売人」を設定することはなく、エージェントたちがジワジワと言い値の間を詰めて、長期的にまちがいをしてはそれを補正しつつ、だれもが完全に満足した状態で交換が実行される「均衡」価格を発見しようとするのだ、と述べていた。

 メンガー『原理』が 1871 年に登場すると、その価値の主観理論は価値の古典派理論を完全に否定するものとなっていた。だがドイツであまり知られぬまま刊行されたために、批判は古い古典派経済学者からではなく、むしろドイツ歴史学派から生じた。グスタフ・シュモーラーに率いられた一派はメンガーの業績を「どうでもいい抽象」と批判し、ドイツ学界に対する政治力を使って、メンガーの支持者や彼の著作が絶対に中欧に進出できないようにした。

 メンガーは『原理』により 1873 年にウィーンで講師の座を確保し、オーストリア=ハンガリー帝国の悲運のルドルフ皇太子の家庭教師をしばらく務めてから、予定していた続刊の作業を棚上げして、『経済学の方法に関する研究』(Untersuchungen) で反撃を開始した。これは「歴史的手法」に関する手厳しい広範な論争であり、経済理論についての見事な擁護となっていて、今日でも読んで得るものが多い。

 手法論争 (Methodenstreit) の火ぶたが着られた。シュモラーとメンガーはその後数年がっぷり四つに組んだ (たとえば Menger, 1884) し、弟子たちがその論争を20世紀に入っても引き継いだ。結局勝ったのはメンガーだと言えるが(シュモラーは返事を止めた)、ドイツ歴史学派は20世紀半ばになるまでドイツの大学を掌握し続けていた。

 メンガーはドイツ歴史学派で手一杯だったしウィーン大学では孤立していたので、古典派経済学者との対立はおこらなかったし、ジェヴォンズワルラスが熱心に勧めていた新しい経済学構築にも参加できなかった。それでも、メンガーの貢献はやがて認知された。アメリカでは フェッター、イギリスでは スマート, ウィックスティード, ロビンスなどL.S.E.に対するオーストリア学派の影響力を通じて、代替費用や需要を「逆転した需要」として考えるやりかたについてのメンガーの理論は、限界主義理論が完全にマーシャル派的な古典派と限界主義ドクトリン「総合」に飲み込まれるのをぎりぎりのところで防いだ。

 実際、メンガーの洞察は新ワルラス派理論の発展に不可欠となる。息子カール (Karl)・メンガーによる ウィーン学団で、主観価値についてのメンガーのこだわりと、経済的財と非経済的財のちがいについての主張は、ワルラス派理論が カッセル連立方程式から分離して、現代的な新ワルラス派 一般均衡理論を構築するのに決定的な役割を果たした。

 だから オーストリア学派 はメンガーが他の学者とはまったくちがうと主張し続けるが――それは主観価値の強調や不均衡、数式の不在、制度の自発的発達(たとえば有名なお金に関する 1892 年研究など)のせいだったりする――彼の研究や洞察の相当部分が有意義な形で現代経済学に入り込んでいることは否定しようがない。ジョン・ヒックスが後に述べたように「メンガーに与うべき栄誉は余人に与え難し」 (Hicks, 1973)である。

カール・メンガーの主要著作

カール・メンガーに関するリソース


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