オランダの医師で、29歳のときにイギリスに引っ越したバーナード・デ・マンデヴィルは、ラ=フォンテーヌやスカロンを手っ取り早く翻訳したりして、英語の能力を急速に磨き上げた(ちなみに後者には、勝手に自作を二編、「ナイチンゲールとふくろう」「鯉」を挿入した)。またイギリスの風刺がお気に召して、外国語を操って有名な詩 Grumbling Hive (1705) を書き、ジモチーたちを上回る冴えを見せた。これは後に、伝説の『蜂の寓話』(1714) に組み込まれ、拡張されてている。『蜂の寓話』の 1723年第二版では、さらに二つの論文 "On Charity and Charity-Schools" と "Search into the Nature of Society" を組み込んだ。
『蜂の寓話』には「私悪すなわち公益」という副題がついている。マンデヴィルは、よくない悪徳、たとえば贅沢、貪欲、嫉妬等々がすべて、事業を推進することで公益につながるんだ、と主張している。たとえば:
"The Root of evil, Avarice, That damn'd ill-natur'd baneful Vice, Was Slave to Prodigality, That Noble Sin; whilst Luxury Employ'd a Million of the Poor, And odious Pride a Million more." Envy it self, and Vanity Were Ministers of Industry" |
(B. Mandeville, Grumbling Hive: p.34) |
一見すると、自由放任主義擁護と受け取られてはいるけれど――「かくしてあらゆる部分は悪徳まみれ/だが全体としては極楽」――『蜂の寓話』はまた、初期の消費不足理論の表明と考えることもできる。ケインズの倹約のパラドックスを与件するように、マンデヴィルは貯蓄という「道徳的」な活動は実は不況の原因であり、贅沢な消費(悪徳の一種)は景気を刺激すると論じた。実際、マンデヴィルは重商主義的な保護貿易も含め、国内消費を刺激する政策を提唱していた。つまり「個人の悪徳も、有能な政治家による巧妙なマネジメントを通じて公共の利益に変わるのだ」(Mandeville, 1714).
マンデヴィルが『蜂の寓話』第二版 (1723) を刊行すると、道徳家が次々にかれを攻撃して、大騒動になった。マンデヴィルは"Vindication of the Book" を『蜂の寓話』(1724) に追加することで答え、続いてまったく新しい『蜂の寓話第二部』(1729) を刊行した。でも攻撃は続いた。フランシス・ハッチソン は、1726 年の一連の手紙でマンデヴィルを攻撃し、本丸ごと一冊かけて攻撃した。経験論哲学者ジョージ・バークレー司教は、Alciphron, or the Minute Philosopher (1730) と Discourses Addressed to Magistrates (1736) をもっぱらマンデヴィル攻撃に費やした。マンデヴィルの反論(特にバークレーに対しては辛辣だ) は 1732 年のLetter to Dion と Vindication (1734) に見られる。
それでも、これだけひどい目にあわされても―― "Mandeville could prate no more" (A.Pope, Dunciad, II:414) となってからも――かれは現代社会と商業資本主義の運命について 楽観主義者 であり続けた。大騒動のさなかでも、かれの挑発的な作品は当時かなりの関心を持って読まれた――そしてハッチソンの有能な生徒であったアダム・スミス にことさら大きな影響を与えたのだった。
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