アバ・P・ラーナー (Abba P. Lerner), 1903-1982.

原ページ
 
Google
WWW 検索 cruel.org 検索

Photo of A.P.LernerLerner's autograph

 アバ・P・ラーナーはロシア生まれ、ロンドンのイーストエンド育ちで、機械工、帽子職人、ヘブライ語教師、中世ラビ語学生をへて、事業にも手を出したあとで、1929年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学した。経済学との接点は、1920年代のイギリスで華開いた各種の社会主義運動とのつながりだった。LSE が我流のラーナーをひきつけたのは、主に ファビアン協会 とのつながりのせいだったが、入ってみるとライオネル・ロビンスの門下生となったのだった。

 学生時代のラーナーは、学部時代も大学院時代も、傑出した存在だった。経済理論で一級の論文を何本か発表しつつ、 ポール・スウィージーやアーシュラ・ウェッブといっしょに Review of Economic Studies を創刊するだけの暇を見つけた。学生時代の論文で、ラーナーは新古典派理論をかためることとなった1930年代「パレート派復興」の再選に躍り出た。ケンブリッジ大学に1934-5年の半年間在席したことで、ジョン・メイナード・ケインズの「ケンブリッジ・サーカス」と接触。その後、ラーナーはケインズに魅了された内輪集団以外の経済学者として、ケインズの『一般理論』の意味を本当に理解した初の経済学者となった。その結果、ケインズ革命の急先鋒となる。ラーナーは1937年にアメリカに引っ越したが、そこでは最後まで落ち着き先がみつからなかった。さまようラーナーは、その後6カ所の大学を転々とし、1940年代には New School for Social Researchでも教えている。

 ラーナーは経済理論と政策に無数の貢献をしたので、20世紀で最も影響力の高い経済学者の一人といえる――とはいえ、学会政治ができないという好感の持てる性格のために、伝統的なキャリアが積めないのは必定だった。初期の貢献はまだ学生時代のものだが、国際貿易理論と一般均衡理論についてのものだった。1932年の論文はハーバラーの生産可能性フロンティアとマーシャルの提供曲線 (offer curves) と パレートの無差別曲線を、国際貿易の2セクターモデルに導入した。これを受けた1934年論文は、その後の国際貿易理論の基本的な提示方法を確立した。また同じく1934年に、ラーナーは「要素価格均等化」理論 ("factor price equalization" theorem) を見つけた。これは後の1948年に サミュエルソン が再発見しているが、彼はこれを1952年まで発表してない。1936 年の論文は、輸出関税と輸入関税の対称性に関する昔からの直感を証明するものだった。

 1934年にラーナーは、一般均衡生産経済における完全なパレート最適性条件を明らかにする、彼のもっとも見事な論文の一つを書いている――特に、あのきわめて重要な 効率性についてのパレートルール, つまり価格が限界費用と等しい \(P = MC\) を明らかにしている。またここで、ラーナーは「独占の度合い」という考え方を発表した。これは価格が限界費用からどのくらいずれるかで示される。

 パレート派理論への大きな貢献もあって、かれはオスカール・ランゲとともに「社会主義計算論争」 (1934, 1935, 1936, 1937, 1938, 1944) に加わった。ラーナーは、\(P = MC\) ルールにしたがって効率性を高めるべきだと論じ、これは社会主義だろうと自由市場だろうと実現できるのだと述べた。そして結果として、社会計画者が左右できるのは、所得の最初の分配だけなのだ、と強調し、結果として生じる配分は完全競争市場以上の効率性は実現できないという。ラーナーは、パレート派一般均衡系の美しさと効率性を確信していた――だがそれが理想論でしかなくめったに実現されないものだと認識できるほどには正気だった――したがって社会主義にも一理あるというわけだ。だがこれについてあまり教条主義的ではなかった。ラーナーは経済民主主義と消費者の選択の重要性を信じていて、民間企業のほうが効率が高いとわかれば、社会主義経済のどんな産業でも民間企業に任せるべきだと論じた。

 ラーナーは無駄が嫌いだった――リソースのアロケーションまちがいは無駄だが、それよりはるかに大きな無駄は失業だ。1936 年に、ラーナーはケインズ『一般理論』について最初期にしてもっとも見事な書評を書き、 ケインズの系を見事に完結させた。これについては1939年と 1952年にもとりあげている。ケインズの投資と貯蓄の分析 (1937, 1938, 1939, 1944) は明解で、特に資本の利用者費用の概念を明確にして、資本の限界生産性と投資の限界効率との関係を示すことで (1936-7, 1943, 1953)、当時吹き荒れていた流動性選好-融資可能資金論争の解決に役立ったし、投資理論 も大幅に明確にした。

 もっと長期的で大きな影響としては、「機能的金融 (functional finance)」の原理を展開したことだ (1941, 1943, 1944, 1948, 1951, 1961, 1973)。この理論では、政府政策は完全雇用の産出と物価安定を実現するよう設計されるべきで、それが公的債務を増やすか減らすかは気にするべきでないと論じている。彼は赤字歳出に対してしばしば持ち出される、「債務負担」だの「クラウディングアウト」だのという発想を見事につぶして見せた。ラーナーの提案には、当初は当のジョン・メイナード・ケインズすら驚いた――が、やがてケインズはラーナーの議論を完全に受け入れるようになった。ケインズによればラーナーの「議論は完全無欠だが、われわれのアイデアの現在の発展段階でそれを一般人に認めさせようとするなら天の助けが必要だ」 (Keynes to Meade, April 1943) とのこと。

 貿易、福祉、社会主義、ケインズ理論に関する研究の集大成として、大作 The Economics of Control (1944) が生まれた。古い主題が統合されて、刷新された――特に\(P = MC\) 効率性ルールと、機能的金融の原理がそうだ。この本で、新しいアイデアも導入された。外国為替市場における政策と変動為替レートによる投機対抗の考え方、貿易安定の「マーシャル=ラーナー条件」、「最適通貨圏」の発想、そして最も有名かもしれないのが「所得の最適分配」だ。これは所得の平等な分配が最適だと論じるため、「平等な無知」の想定を活用した議論だ。これはミルトン・フリードマンとの論争につながった。

 1944 年以降、ラーナーは純粋経済理論から離れて経済政策に向かった。ただし例外はいくつかある――特に、ケインズ理論の完成に関する 1952 年論文と、大胆な 1962 年論文における、ミクロ経済学とマクロ経済学の驚異的な「統合」だ。これまた大きな例外は、インフレに関する驚くべき業績だ。ラーナーは 新ケインズ派理論におけるインフレ を説明する重要性に初めて気がついた人物かもしれない。そして驚異的な論文や著書 (1944, 1947, 1949, 1951, 1972) で分析を提示している。特に彼は、「売り手インフレ」という概念を導入した。これは「コストプッシュ」型インフレの一般形で、これは後にシドニー・ワイントラウブポストケインズ派の核心となる。インフレの分析においてラーナーは時代をかなり先取りしていた。スタグフレーションの可能性や、フィリップス曲線における失業とインフレのトレードオフ、彼が「高い完全雇用」と呼んだもの(フリードマン自然失業率の先取りだ)、期待インフレと予想外のインフレとの影響のちがい、暗黙契約理論などをすべて指摘しており、しかもそうした概念が他で採り上げられるよりずっと早かった。

 ラーナーは、目新しい政策提言も山ほどもっていた。たとえばインフレの分析から、早い時期に所得政策を支持し (1947)、後にその驚異的な「市場反インフレ計画」 (MAP, 1980) が登場した。MAP は一種のバウチャー制を作ることでインフレのコストを「内部化」しようとするものだ。企業はある年の売り上げが総目標に到達しなければ、バウチャーを追加で買って売り上げを増やし、売り上げが目標を超えてしまった企業は、バウチャーを売り払う。この仕組みのツボは、市場の部分だ。もし企業がどうしても売り上げを増やしたければ公開市場で目標以下で売却をしている企業から追加バウチャーを買えばいい。こうして市場をインフレプロセスそのものにまで拡張することで、インフレの外部性を内部化できるだけでなく、総需要をうまくコントロールしつつ事業家活動の個人のダイナミズムを失うこともない、とラーナーは論じた。

 この業績の(部分的な)羅列からもわかるとおり、これほど経済学の武器庫に貢献した経済学者が、この分野で日陰者扱いされているのは残念きわまる。かれの貢献はどれ一つとっても優にノーベル賞に値するものだし、その総和は20世紀最高の経済学者の一人という認知を勝ち取った。だがきまじめな学界の専門家からみれば、ラーナーは決して「仲間」ではなかった。たぶんボヘミアン的な印象を与えたことだろう。逍遥派のひげ面学者でつまさきの開いたサンダルをはき、襟のボタンをはずして、モービルが好きで、あるときはメキシコにでかけてレオン・トロツキーに対し、ケインズ革命を受けてあなたの主張は変えねばならないと説得に赴いたことさえある。セールスマンとしてはかなりダメでも、ラーナーは鋭く厳しい論理学者で、理論面でも政策分析でもきわめて創造的だった。経済学を芸術様式として扱ったし、まちがいなくラーナー自身がその巨匠の一人だったのだ。

アバ・P・ラーナーの主要著作

アバ・P・ラーナーに関するリソース


ホーム 学者一覧 (ABC) 学派あれこれ 参考文献 原サイト (英語)
連絡先 学者一覧 (50音) トピック解説 リンク フレーム版

免責条項© 2002-2004 Gonçalo L. Fonseca, Leanne Ussher, 山形浩生 Valid XHTML 1.1