ジョン・メイナード・ケインズ (John Maynard Keynes), 1883-1946.

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John Maynard Keynes

 ジョン・メイナード・ケインズはまちがいなく経済学史上で最重要人物の一人だ。その古典『雇用と利子とお金の一般理論』 (1936) で、ケインズは 経済学に革命を起こした。これは 20 世紀で最も大きな影響力をもたらした社会科学理論だろうと考えられている。この本は世界の経済や社会における政府の役割についての見方を、一瞬で永久に変えてしまったからだ。 これほど大きなインパクトをもたらした本は空前絶後だ。

 ケンブリッジ の経済学者で論理学者でもあるジョン・ネヴィル・ケインズの息子、ジョン・メイナード・ケインズは、イギリスのエリート校、つまりイートン校とケンブリッジのキングスカレッジで教育を受けた。1906 年からしばらくイギリスの公職について、1909 年にケンブリッジに戻った。

 この時期、生涯にわたる交流が三つ築かれた。まずケインズはケンブリッジのキングスカレッジの一員であり続けた。二番目に彼は 1911 年に Economic Journal の編集者になり、その後ほとんど晩年までこの任に当たった。「ブルームスベリー・グループ」と呼ばれる上流階級のエドワード朝審美主義集団に入ったのもこの頃だ。他の参加者はバージニア・ウルフやクライブ・ベル、リットン・ストラッチーなどだ。この集団はかれの「経済学の外の生活」を構成する。

 処女作『インドの通貨と金融』 (1913) はインド省での経験に直接結びついている。J.M.Kは 1914 年から 1918 年にかけてイギリス大蔵省の要請で、イギリスの戦争資金調達に協力した。この仕事でかれは頭角をあらわし、そこで得た影響力のおかげで、1918 年のベルサイユ講和会議でのイギリス代表に加わった。J.M.K は和平調停のひどさにぞっとした。とりわけイギリスがドイツに課した多額の「賠償金」は、壊滅的影響をもたらすものだとして反対した。彼は講和会議団を辞任して『平和の経済的帰結』(1919)を発刊した。この本でケインズはベルサイユ条約を批判し、世間の注目を集めた。

 ケンブリッジに戻った後、ケインズは『確率論』(1921) を出版した。この中で彼が創始した理論は、確率論の古典理論を解体し、後に「論理 - 関係主義的」確率論として知られるようになったものだ。ケインズの研究はちょっとした論争を引き起こし、ケンブリッジの若い論理学者、フランク・P・ラムゼイに刺激を与えて独自の「主観的」確率論 を構築させるに至った。

 ケインズは 1923 年に『貨幣改革論』を出版した。これはお金のケンブリッジのキャッシュバランス説に貢献した。そしてアルフレッド・マーシャル、アーサー・C・ピグー、デニス・H・ロバートソン など他の ケンブリッジの経済学者たちがこれを発展させた。また、ケインズが初めてヘッジ取引と投機についての『直線逆転現象 (normal backwardation)』理論を提唱したのは、1923 年の新聞記事でのことだった。

 1920 年代を通じ、ケインズは政策論争にも積極的に参加し続けた。これは主に Nation and Atheneum に掲載された多くの論文を通じて行われている。これは 1923 年に彼が買い取りを手伝った、リベラルな労働党系の週刊誌だ(Nation and Atheneum は 1931 年に New Statesman に吸収された)。公共政策に関する最も優れたケインズの著作は Essays in Persuasion (1931)に集められている。ケインズは、イギリスの旧平価での金本位制復帰を阻止するために最前線で闘っていた (例えば 1925)。こうして自由放任主義経済政策(1925、1926) を批判する 2 本の有名な論文を書くことになった。1929 年にはヒューバート・D・ヘンダーソンと一緒に選挙のパンフレットを書き、失業を減らすために公共事業をしろと提言して大蔵省が「財政赤字」を恐れていることを糾弾した。また 1929 年にはドイツの賠償金問題について、ベルティル・オリーンやジャック・ルーフと軽い論争をした。そして 1925 年にロシアのバレリーナ、Lydia Lopokovaと結婚するだけの暇も見つけた。

 1930 年に、ジョン・メイナード・ケインズは分厚い『貨幣論』全二巻を出版した。この中で彼は実質的に、信用に基づくヴィクセル的信用サイクル理論を提唱している。ケインズはここで利子の流動性選好の萌芽を明らかにして、これが自分の代表作になると信じ込んだ。でもこの自信はすぐにつぶされた。フリードリッヒ・フォン・ハイエクが『貨幣論』を手酷く非難したのでケインズはスラッファにハイエク自身の対立する著作について論評させた(そして同じくらい手厳しく非難させた)。ケインズ/ハイエク論争はケンブリッジ-L.S.E戦争のほんの一幕でしかない。

 『貨幣論』はまた「サーカス」として知られる学識集団を作りだした。この集団にはケンブリッジの若い経済学者たち、リチャード・カーン、 ジョーン・ロビンソン、オースティン・ ロビンソン、ジェームス・ミードそしてピエロ・スラッファなどがいる。カーンはサーカスの議論記録を律儀に届け、それを受けてケインズは自分の考えを修正していった。その結果として出てきた『貨幣論』に対する批判の一つは、それが全体としての産出量と雇用を決定する理論を示せていない、ということだった――特に当時の大量の失業を考えると、これは重要な問題だ。

 これについての鍵を提供したのが、リチャード・カーンの小論文 (1931)――所得支出乗数理論だった。これが将来引き起こす革命の基礎となったのだ。1933 年の 2、3 の論文や論説でケインズは新しい発想を発表し始め、そして再検討や詳細な分析のためにサーカスや数人の経済学者の仲間たちに新刊の草稿を見せ始めた。投資の限界効率に関する発想がまとまるまでにはしばらく時間がかかった。

 1936 年初めにやっと『雇用と利子とお金の一般理論』という大仰なタイトルの新刊が刊行された。大いに期待されていた本だし、値段も安く設定されていたし、都合のいいことに世界が大恐慌に捕まっていたまさにその時に出てきたこの『一般理論』は、学界と政治の世界の両方で旋風を巻き起こした。あるアメリカの政治家曰く、新古典派の経済学者たちが提案する政策は、政治的にはろくでもないものだというのは誰でも知っていたけれど、この本のおかげでそれが経済学的にもひどい代物だというのがわかった、とのこと。

 この本は『一般理論』とだけ呼ばれるようになった。この中でケインズは、総産出がどう決まるか――そして結果として雇用がどう決まるか――を説明する理論を考案した。そして総産出こそが一番重要な決定要因だと述べた。ケインズが創出した革命的な概念としては、需要が均衡を決定してそれが失業を可能にするという考え方がある。そして価格弾性は失業をなくすことはできないという考え方、「流動性選好」に基づく独特なお金の理論、革新的な不確実性と期待の導入、投資スケジュールの限界効率によってセイの法則を破ったこと(そしてそれによって貯蓄と投資の因果関係を逆転させたこと)、不景気をなくし経済過熱を抑えるために政府が財政・金融政策を使う可能性を示したこと。実際、この本によって、ケインズは「マクロ経済学」として知られる根本的な関係や概念を、ほとんど一人で構築したのだった。

 ケインズの革命は経済学界を2つの世代に引き裂いてしまった。つまり若い連中は我先にケインズを支持した。でも古い学者たちはケインズ説を糾弾した。ジョン・メイナード・ケインズは 1937 年に最も有力な反論者たち、ジェイコブ・ ヴァイナー、デニス・ ロバートソン そしてベルティル・オリーンなどに一連の論文で反論した。この論文により、ケインズは自分の理論の重要な論点について議論をさらに展開できた。ケインズのサーカスのメンバーたちは、この緻密で難解な本の解説書を立て続けに発行した。例えば、ジョーン・ロビンソンや、その他イギリスの地方の若い経済学者たち、ロイ・ハロッド・やアバ・ラーナーなどだ。

 特に重要なのが、ケインズの理論をまとめた "IS-LM"を導入したジョン・ヒックス1937 年論文 (邦訳)だ。この論文が新古典派-ケインズ総合を創始し、これはアメリカで(そしてあちこちで)戦後、特に 1950 年代から 60 年代に至るまでの支配的なマクロ経済学として行き渡った。けれどジョーン・ロビンソンなどのケインズのサーカスの古株たちを含むいわゆる「ケンブリッジのケインズ派」とそのアメリカでのいとこ分、ポストケインズ派は、ケインズ革命に「総合」のひねりを加えることに異論を唱えた。彼らは自分たちの理解のほうがケインズの本来の説をもっと忠実に再現していると主張した。

 ケインズは 1938 年頃に体を壊してしまった。その結果として彼は白熱していた議論から退いた。第二次世界大戦が本格的に生じると、ケインズは再び登場して 1940 年の小論文、How to Pay for the Warを刊行した。この小論文で戦争中のリソース制約によって引きおこされる「インフレギャップ」を指摘し、物価インフレ阻止のために「強制貯蓄」や配給策を奨励した。これは 1941 年に採用された。1940 年の論文は『一般理論』の「不況の経済学」を補完するインフレ理論の萌芽となった点で重要だ。

 戦時中、ケインズは財務省で戦後の経済秩序について考えるようになった。1938 年にベンジャミン・グラハム の金本位制に代わる国際「商品準備貨幣」案に好意的になった。彼は 1943 年に、国際クリアリング連合「バンコール」という概念を考え出した。アメリカとの協議の中で、ケインズはやがて妥協して参加国の通貨で保管される国際為替平衡「基金」を作るというアメリカの「ホワイト案」を受け入れた。でもケインズのクリアリング連盟案からもいくつか重要な側面は取り入れられた。

 ケインズは 1944 年にブレトンウッズ会議に派遣されたイギリス代表団の団長を務めた。この会議では新しい国際為替システムの細部が詰められた。アメリカの「ホワイト案」が採択され、各国の通貨はドルに対して固定為替レートを維持し、ドル自体はそれに対応するだけの黄金を用意した。国際通貨基金 (IMF) と世界銀行 (IBRD) という二つの新設機関が、新しい国際金融システムの監督用に創設された。

 こうした公式派遣団の出張と激務のおかげで、すでに危険な状態だったケインズの健康はさらに悪化した。1946 年、アメリカのイギリスへの融資保証を確保した後まもなくケインズはその一生を終えた。

 [当ウェブサイトのケインズ革命のページ群には ケインズの『一般理論』についての論文 と 1936 年以降の新ケインズ派の世界の発展、ケインズの成長理論ケインズのビジネスサイクル理論もあるよ。]

ジョン・メイナード・ケインズの主要著作

[ケインズは多作だった。以下のリストはケインズの著書と有名論文だけしか挙げていない。Nation & Atheneum (N&A), Manchester Guardian Commercial, Reconstruction in Europe (MGCRE), The Listener, The New Republic, The New Statesman and Nation (NSN) The Timesに掲載された数多くの匿名・署名論文は、ほとんど省いてある]。

J.M. ケインズに関するリソース


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