デビッド・ヒューム (David Hume), 1711- 1776. : 小入門


「学問に情熱を傾けよと(自然は)言うが、その学問は人間的なものであるべし。したがって、行動や社会に対して直接の関わりを持つものであるべし。小難しい思考や重箱の隅めいた研究をわたしは禁じ、そして罰する。それらがもたらす悲しげな憂愁によって、それが引きずりこむ果てしない不確実性によって、そしてその発見めいたものを伝えたときにそれが直面する冷たいオウム返しによって罰するのだ。思想家にはなりたまえ。だがそのあらゆる思想の中にあって、変わらず人間であり続けることを忘れるな」
(デビッド・ヒューム, Enquiry Concerning Human Understanding, 1748: p.5)

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デビッド・ヒュームは、西洋史上最高の思考家の一人で、著述家としてもまちがいなく一番楽しい人の一人だ。永遠に懐疑的だけれど常に思念なデビッド・ヒュームは、西洋思考の全体をその根幹から揺るがした――おかげでそれまで謹厳に構えていたイマヌエル・カントですら、その「教条的な停滞」からあわてて抜け出して、西洋思考を必死で再構築しようと奮闘することになったほどだ。2 世紀たってもヒュームの放った地震――そしてその現代版の余震――による瓦礫は、科学や哲学のあらゆる部分から、こちらを不安そうにうかがっているのだ。

ちょっとした伝記

 ヒュームはただの哲学者を遥かに超える存在だ。優れた歴史家、経済学者、社会学者でもあった――そしてあらゆる点から見て、ホントにいい人だった。デビッド・ヒュームは「スコットランド啓蒙主義」 (だいたい 1740 年から 1790 年頃) に君臨したが、ここにはアダム・スミス (Adam Smith)、フランシス・ハッチソン (Francis Hutcheson)、アダム・ファーガソン (Adam Ferguson)、ジェイムズ・ステュアート卿 (Sir James Steuart)、ジョン・ミラー (John Millar)、ケイムズ卿 (Lord Kames)、ウィリアム・ロバートソン (William Robertson)、トマス・レイド (Thomas Reid) などが含まれる――でもヒュームの著作はその洞察の点でも、深みにおいても、後世にとっての価値の点でも、このグループの他の全員を束にしたより抜きんでているのはまちがいないし、それを言うなら当時のヨーロッパ人を束にしたよりもすごい。友人のアダム・スミスはこう述べている:「わたしはかれを、存命中もその死後も、か弱き人間存在に許される限り最も完全に賢く美徳に満ちた人物に近い存在と考えてきた」 (スミス, 1776).

 ヒュームは確かに才能には恵まれていた――ほとんどのかれの発想は、19 歳になる頃にはすでにできあがっていた。でも幸運は、片手で与えたものをもう片手で奪いがちなもの。かれは 1711 年 4 月 26 日、スコットランドのエジンバラで、ナインウェルズ荘の弁護士ジョセフ・ホームとキャサリン・ファルコナーの第二子として生まれた。その父親は 1713 年に高い、母親が一人でかれを育てた(ヒュームは 1731 年に、イングランド人たちが自分のスコットランド語の「ホーム」という名前の発音に苦労しているのを見て、ヒュームと改名した)。

 1723 年にエジンバラ大に入学して法学を学ぶ(12 歳で大学に入るのは、当時はよくあることだった)。でも哲学と文学に惹かれてかれは 1729 年に大学をやめて、続く8年間の長きにわたり、病気と憂鬱とフラストレーションと精神障害に悩まされつつも、これらの分野を独学して、独自の見事な理論を構築した――そしてやがて傑作 A Treatise of Human Nature にそれが結実する。

 かれのプロジェクトはかなり複雑だった。 Treatise の副題からわかるとおり、かれは「道徳的な課題に対して実験的な手法を導入する」ことをねらった――もっと単純に言うと、啓蒙主義やニュートンやベーコンの科学的手法を、5つの人間の課題に適用しようとしたわけだ。この課題は Treatise 全五巻のそれぞれで扱われる―― I (理解について), II (情熱について), III (道徳について), IV (政治について), V (批評について)。

 休息と生活たてなおしを図ろうと、デビッド・ヒュームはまずイングランドのブリストルに向かい、砂糖商人のもとではたらいたが、1734 年にはフランスに姿を消して、まずはリームに落ち着き、それからラ・フレシェ (デカルトの通ったイエズス会のアンジュー大学の近く)に落ち着いて、 Treatise 執筆に取りかかった。1737 年にイギリスに戻る。1739 年には、 Treatise of Human Nature 全五巻のうち、最初の三巻だけが刊行された。1739 年 (I、II 巻) と 1740 年 (III 巻)だ。ヒュームは当時29歳だった。

 匿名で出版された Treatise は、ヒューム自身に言わせると「印刷機を出た時点で死産であり、熱狂者の間ですらつぶやき一つ引き起こせないほどの低い認知にすら到達できなかった」 (Hume, 1776)。でもこれは正直に言えばウソだ。熱狂者たちはこの本がお気に召さず、かれが大学で絶対に職につけないようにした。1745 年にエジンバラ大学の教職に応募したところ、ヒュームを「反逆的」と見なした司教や有力市民数名によってそれは拒否された――これかヒュームが出版間際になってびびって、Treatiseのやばい部分の一部(たとえば「奇跡」に関する悪名だかい小論)を削除したにもかかわらず、なのだ。

 敗北したヒュームは、半分キチガイのアナンダレ侯爵の家庭教師となり、それから落ち着かないジェイムズ・セント・クレア将軍の補佐となった。セント・クレアといっしょに、ヒュームはブリタニーの軍事法務官となる。これはもともと、カナダ侵攻を意図したばかげた軍事遠征の、得体の知れない結果だった。ヒュームはその後セント・クレアについて、ウィーンとトリノの大使館にいった。1751 年にエジンバラに戻って、もう一度大学職に挑戦――こんどはグラスゴー大学だ――そしてまた失敗 (噂によれば、かれの小心な友人だったアダム・スミスは、もうちょっと口をきいてあげられたかもしれない、らしいぞ……)。

 ヒュームはもともと Treatise を五巻本として構想していた。最初の三巻、I (理解について), II (情熱について), III (道徳について) は 1739-40 年に刊行された。続く2巻、IV (政治について), V (批評について) は日の目を見ることはなかった(とはいえ、かれがこうした主題について書こうと思っていたことのほとんどは、後の Essays で語られることとなったが)。ヒュームは Treatise に対する険悪に近いほどの不評ぶりは、その中身のせいではなく、書き方の問題だと結論づけた。そしてTreatise の議論を書き直してもっとわかりやすい「説明的」な著作 2 巻にした。 Abstract (1740) と A Letter from a Gentleman (1745) で、どっちも「熱狂者」からの非難への反論を書いていた。

 かれはこうした問題に取り組み続けた。各種問題についてのエッセイ集二冊がその間に刊行された。 Essays: Moral and Political (1742) と Three Essays (1748) だ。これらは、ちなみにかれがはっきりと自分の名前を冠して出した初の刊行物だった。1752 年に、かれは Political Discourses を刊行し、ここにはかれの経済学への貢献ほとんどすべてが含まれている。このエッセイ集三冊は、やがて一巻にまとめられた。それが 1758 年の Essays: Moral, Political and Literary だ。ふたを開けてみると、かれの著作の中で最も評判が高かったのはこの本だったかもしれない。

 この時期の一番最後に、ヒュームはすばらしい考察二編、 An Enquiry Concerning Human Understanding, (1748) と Enquiry into the Principles of Morals (1751) を発表した。前者はかれの形而上学理論、もともと Treatise 第一巻で提示されたものを、明確で読みやすい形で述べなおしたものだ(そしてこの機会に「奇跡」に関する議論も組み込んだ)。二番目は、倫理に関する理論(Treaties の第三巻)について同じことをやっている。かれはこの二番目の考察を、自分の書いたものの中で「比肩するもののない最高傑作」としている。

 1752 年、デビッド・ヒュームはエジンバラの College of Advocates 司書に任命された。手元に時間とリソースが有り余ったヒュームは、そのすばらしい全六巻の History of England (1754-1762) 執筆に乗り出した。この著作はヒュームにとって、新しい別個の関心事項じゃない――むしろかれは、それをいままでのほかの仕事の続き、かれの政治理論の「現実的応用」だと考えていた。EssaysHistory of England はヒュームが Treatise やその後遺症で失った評判をほとんど回復させてくれた。

 が、それでちょっといい気になりすぎたのかもしれない。1757 年に、ヒュームは Four Dissertationsを刊行し、その一巻は有名な『宗教の自然史』The Natural History of Religion だった。これは神に基づく「自然宗教」(つまり当時流行の、宗教は啓示ではなく理性に基づくことができるという発想)を滅多切りにしたもので、宗教的な信仰は粗雑な「迷信と熱狂」の産物でしかないよ、と論じた。これはかなりやばい火遊びだった。ヒュームは勇敢に続けて、きわめて無神論的な Dialogues Concerning Natural Religion とエッセー二本、「自殺論」"Of Suicide" と「魂の不滅について」 "Of the Immortality of the Soul"を書いた。でも、状況がやばくなってきているのを感じて、かれはこれを刊行しなかった。

 1763 年には図書館を離れ、人間世界にもとった。こんどはイギリスの駐仏大使ハートフォード卿の私設秘書として。ヒュームの評判はすでに出回っていて、パリの啓蒙主義者では大人気者となっていた。1766 年には国務次官としてロンドンに戻り、かなり迫害されていたジャン=ジャック・ルソーもつれて帰った。ルソーはイギリスでヒュームの庇護のおかげでものすごい恩恵を被り、批判者に反論する有名な Letters from the Mountain はヒュームの家で書いたものだ。でもルソーの偏執狂ぶりと陰険さは、やがて善良なヒュームの辛抱強さをもってしても耐え難くなる。二人が 1767 年に決別したとき、ものすごい噂があれこれ出回ったので、その諍いの原因についてはっきり説明する小論を書かざるを得ないとヒュームは感じた。

 1769 年にヒュームはロンドンを離れてエジンバラに向かい、そこで余生を送る。ここでかれは哲学的な半隠遁生活を送り、初期の著作を訂正し、スコットランド啓蒙主義のインテリたちやアン・オルド夫人をもてなした。短い自伝 My Own Life を 1776 年に書き、ここで初めて Treatise 執筆を公式に認めた。苦痛に満ちた病気がいささか長引いたあげく、デビッド・ヒュームは 1776 年 4 月 26 日に没した。最後まで陽気な根っからの無神論者として(ヒュームの最後の日々の記録としては、アダム・スミスの Letter to Strahan やジェイムズ・ボスウェルの Journalを参照)。

 死ぬ前に、かれはアダム・スミスに長いことお蔵入りにしていたエッセー二本「自殺論」「魂の永遠性について」と、著書『自然宗教に関する対話』を刊行してくれ、と指示した。いつもながら小心なアダム・スミスはそれを果たさず、出版社のウィリアム・ストラハンもご同様だ。やっと 1777 年にかれの甥っ子がそれらを刊行したが、著者名も出版社名すらもつけない状態で刊行されたのだった。

哲学者ヒューム

 ヒュームが哲学に到達したのは、単純な疑問を通じてのことだった:人間の知識の限界って何だろう?――これは何年も後にルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが考えたのと似た問題だ。だからカントは正しくヒュームを「人間理性の地理学者」と呼んでいる。

 これは無意味な質問じゃない。合理主義者たち――デカルトを筆頭に全員――は、人間知識の基盤は理性にある、と主張してきた。理性は、人間の本性に生得的な考え方とされる。ジョン・ロック (1690) はこの想定を疑問視して、知識というのは、感覚を通じて獲得した概念の複雑な組み合わせでしかないよ、と結論づけた。かれは、物質を思考と関連づけるところでこんがらがった。ロックは、物質には「第一性質」(たとえば広がり、大きさ等々)があって、それが感覚を通じてわれわれに訴えかけるのだ、と考えた。ぼくたちの精神は、それを「第二性質」(色、味、音等々)に再構成するけれど、こうした第二性質は、必ずしもその物体に「内在的」なものじゃない。だからぼくたちの知識は、単に現実の絵から成るものでしかない。それは「内在的」なものじゃない、その絵は外部から「生成」されたものだからだ、とロックは論じた。

 ジョージ・バークレー (1710) は、性質の間に区別をつけるのに反論するという単純なステップを取った。ぼくたちの知識は現実の絵ではなく、ただの絵でしかない。現実とは必ずしも結びつきはないし、ぼくたちの頭の中にあるだけだ。だからバークレーは、ロックの理論の物質的な部分を完全に否定したわけだ。

 ここでデビッド・ヒュームが登場する。かれは命題を二種類に分類した:一つは「概念の関係」についてのもの(分析的)で、もう一つは「事実を述べたもの」(合成的)。前者は、世界についての知識一切なしに、単なるアプリオリな理由づけだけで展開できる。後者は、経験を通じてしか獲得できない。

 「概念の関係」の方に入るのは、数学、幾何学、純粋論理だけだ、とヒュームは論じた。でも、それは現実については何も述べていない。というのも、こうした分野の命題はすべてトートロジーだからだ。「概念の関係」にはいくつか性質がある――それは検証の必要がない(たとえば、人は \(2 + 2 = 4\) が真か確かめる必要はなく、単に「\(+\)」と「\(=\)」というものの意味を考えればいい)し、それは定義からして真であり(「\(4\)」は確かに、「\(2\)の2倍」というのが定義だ) 、否定すると矛盾が生じ(たとえば「\(2+2=4\)でないときもある」と言ったら、 \(4\) というものの意味に矛盾が生じる)、そしてそれは必然的に真だ (\(2+2\) が \(4\) 以外になるとは考えられない)。でも、これはすべてトートロジー(同義反復)でしかない、とヒュームは結論づける(つまり \(2+2\) と言っても \(4\) と言っても同じことを繰り返しているだけだ)。そして、そのすべてがトートロジーであるなら、現実については何も明らかにしない。それは人間精神の構築物ですらなく、その意味自体から真となる――つまり「\(2+2 = 4\)」「独身者は結婚していない」「三角形には辺が三つある」は、世界についての意味のある命題じゃなくて、対象が述べていることを前提として繰り返しているだけだ。

 じゃあ「事実を述べたもの」はどうだろう。これは個別の感覚にさかのぼる必要がある。これが何を意味しているかというと、それが真実として考えられて、ぼくたちが(多かれ少なかれ)それが真実であると知るためにはどんな感覚を経験すべきかを知っている、ということだ。だから「空は青い」は「事実を述べた」命題だ。というのも、ぼくたちは空が青いと結論づけるためにはどんな感覚を経験する必要があるか知っているからだ。

 でも、ある命題が「概念の関係」でもなく「事実を述べたもの」でもない場合、それは命題ですらなく、単なる「ナンセンス」(ウィトゲンシュタイン的に言えば)だ。したがって、神の存在のような形而上学的な主張はすべて人間の知識の外にあって、「信念」となる。つまり経験から生じたものでもなく、アプリオリに真実でもない。「神は存在する」は、概念の関係ではない。それを否定しても特に矛盾は起きない(「神は存在しない」は神の概念と矛盾するものではない)し、定義から真とはいえないし(「神」と「存在」は同じ概念ではない)、「必然的」に真実とも言えない(神が存在しないことは想像できる)、アプリオリでもない (つまりこの命題の意味を考えるだけで神の存在を決めることもできない)。だから「神は存在する」という命題はどう見てもトートロジーではなく、したがって「概念の関係」じゃない。

 でもそれは「事実を述べたもの」だと言えるか? どんな知覚可能な経験が、神は存在するという結論にすぐに結びつくだろうか? 伝統的な答は二種類あった。一つは「奇跡」の経験だ。でも、ここには必然的な結びつきは何もない。燃える茂みや、盲人が直ったというのは、必ずしも神の存在への信念にはつながらない。燃える茂みは、雷の存在、セントエルモの火、ヴァルカン神の存在への信念につながることもできる(実際につながってきた)し、必ずしも神の存在信念にはつながらない。だから神の存在への信念は、こうした想定される「実証」が先立つものではない。というのも、その命題を実証するような感覚知覚のはっきりした集合がないからだ。

 第二の方向性は、因果関係の領域に従うことだ。われわれは「因果律」の体験を持っているとされており、もし「因果律」が正しいのであれば、そこには「第一原因」があるはずだ――したがってそれを神と呼ぼうではないか、というわけだ。これは「自然宗教」においてはよくある議論だ。ここでヒュームは、因果律に対する有名な攻撃を展開する。

 ヒュームの立場は単純にこういうことだ:因果律それ自体は、意味ある命題じゃない。というか、「因果律」自体は「概念の関係」でもないし(たとえば、「朝日がニワトリを鳴かせる」という命題を否定しても、矛盾は生じない)。さらにそれは、具体的な感覚にさかのぼることもできない。したがってそれは「事実を述べたもの」でもない。われわれは、感覚的なデータと因果関係があるという命題との間に「必然的な結びつき」を持っていない。単にある現象が起きて、続いて別の現象が起きることから、前者が後者を引き起こしているのだと「想定」する(が、実際にそれを知ることはない)。でも、そんな想定をしないことだって十分に可能だ。有名なビリヤードの玉の例をとって、ヒュームはこれを見事に論じる。

 ヒュームの議論では、因果律は、単に結びつきの習慣、一種の「信念」でしかなく、とことん無根拠で無意味だ。 Enquiry でかれはこう書く:

「まわりの外的な物体を見回して、因果律の作用を考えるとき、どれ一つとして必然的な結びつきや力を発見することはできない。(中略)われわれは、一つの出来事が実際に、確かに他のことに続いて起こることを見いだせるだけだ」
(D. Hume, 1748: p.67)

そしてさらに、以下のように述べる:

「だが、ある特定の事象系列が、あらゆる状況で、別の事象系列を結びついている場合、我々はもはや、片方の事象がもう片方を予見していると言うことに何のためらいも持たない。(中略)そのときわれわれは、片方の事象を『原因』、もう片方の『結果』と呼ぶ。そしてその両者の間に何らかの関係があると想定する。片方の中にある力が、間違いなくもう片方を引き起こして、それが実に強い確実性と必然性を持ってそれが機能するというわけだ」
(D. Hume, 1748: p.80-81)

 でもヒュームは、これが誤解のもとだと警告した。ニワトリが鳴くから朝日が昇るのか? 歴史的に言って、ニワトリの鳴き声は日の出に確かに先立つので、とても一貫性のある予測現象となはる。でも、そこに因果関係が見つかると考えるだろうか? バカ言っちゃいけない。初めて人がこの現象を見たら、それは単に「連結した」事象でしかない。でもそれが何度も繰り返されるにしたがって、想像力がそこに関わってきて、ぼくたちはそこに「結びつき」を見いだす――でもこれは、ヒュームが指摘するように単なる人間の「感触」でしかない。ぼくたちが、X が Y を引きおこすといったら、「われわれは単に、それがわれわれにとっては結びつきを獲得して、そうした(因果関係)の推定をもたらすようになった、と言っているにすぎない」 (p.82) が、実際の事態を考えるなら、われわれの知覚認識は単に「X が先に起こりがちで、Yが後から起こりがちだ」としか語らない。

 すでにぼくたちは、可能性の領域に足を突っ込んでいる――これまたヒュームが貢献をしている分野だ。なんといっても多くの科学は、因果律という概念に頼っている。たとえば、熱は金属を膨張させるとか。でも、この関係には確実な因果性はない。単に継続したできごとがあるだけだ。だから「因果律」というのの意味は、要するに「ぼくが金属を熱したらそれに伴って膨張が行われがちだ」という話だ。つまり、何かが何かによって必ず生じるとは言えなくて、生じる「可能性が高い」といえるだけだ。ヒュームが物事を関連づけるにあたって科学的な「因果律」を単なる「可能性」として定義しなおしたのは、ポスト量子時代にはなかなかしっくりくる。すでに二〇世紀初期には、マックス・プランクみたいな科学者の多くは、因果律や決定論の科学的な意味を確率論的にとらえなおそうと、ずいぶん尽力してきたんだから。

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