ジョン・ヒックス卿 (Sir John R. Hicks), 1904-1989

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Photo of J.Hicks

 20 世紀で最も重要で影響力ある経済学者の一人であり、絶えず異種融合を試み続けたジョン・ヒックスの痕跡は、経済学理論のいたるところに見られる。オックスフォード大卒ながら、「本当の」教育が始まったのは1920年代末にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに赴任して、ライオネル・ロビンスらの奨めで多くのヨーロッパ言語能力を活かし、大陸ヨーロッパの経済理論を吸収しはじめたときだった。こうして ワルラス派オーストリア学派スウェーデン学派を身につけたジョン・ヒックスは、1930年代に英米経済学における マーシャル派の独占を切り崩し始めた——このサイトでパレート派の大波と呼んでいるもので、50年前に始まった 限界革命の集大成だ。

 その急先鋒となったのがジョン・ヒックスの古典的な『価値と資本』 (1939) だ。この本の要所はあちこちで発表済みだった。ミクロ経済側では、1930年の論文と1932年の著書『賃金の理論』は、限界生産性理論の慎重かつ完全な語り直しの試みだった (有名な「代替の弾性」が初登場したのもここだ)。R.G.D. アレンと共著した有名な1934年論文で、ヒックスは需要を代替と所得効果にスラツキー分解し、代替と相補を明確に定義して、英語圏の経済学者に対して無差別曲線と予算制約を使った需要曲線の導出、代替の限界比率と相対価格を改めて説明しなおしたのだった。

 「独占」に関するレビュー論文 (1935) は各種の不完全競争理論をまとめるために "conjectural variations" の知識を導入したが、この問題についてはこれが最初で最後の取り組みとなった。「レオン・ワルラス」に関する論文 (1934) は、当時は忘れられていたローザンヌ学派再興の試みだし、ミュルダールの業績レビュー (1934) はストックホルム学派に注目を集めようとする同様の試みだ。

 マクロ経済学側では、1931年のナイト理論に関する論文と、ハイエクに影響されたビジネスサイクルに関する 1933 年論文がマクロ経済学分野での初の業績だ——どちらも L.S.E. 的な色彩が強い。1935 年の「お金の理論単純化の提案」は、お金の理論と価値理論を統合しようという大胆な提案だった——単純な 貨幣数量説 を離れて、もっとワルラス的な、選択理論に基づくものにしようというのだ。これはケインズの「流動性選好」に近いし、また実は後のポートフォリオ理論にも近い。注目すべき点として、お金に関する研究とビジネスサイクルに関する研究はまったく無関係だった。ヒックスは金融理論にすさまじい貢献をしたにも関わらず、生涯を通じてマクロ変動の源は「リアル」な現象に見いだすべきだという立場を保った。

 この信念に挑戦をつきつけたのは、 J.M. ケインズ『一般理論』だった。これに対するヒックスの1936年レビュー論文は実に優秀だったが、ヒックスがIS-LM モデル (および「例の」グラフ) を導入して、ネオケインズ派総合の発射台を用意したのは 1937年の「ケインズ氏と古典派たち」論文だった。またこの論文で、ヒックスは「流動性の罠」の概念を導入している。

 1939 年にヒックスはこうした各種の学派の思想をまとめあげて『価値と資本』 (1939) を発表した。現代ミクロ経済学と 一般均衡理論のほとんどはこの本がルーツだ。「composite commodity」の発想と一般均衡安定条件がここで述べられたし、効用に基づく需要の理論も完全に再定式化されている。 1935 年の「示唆」とケインズに関する研究 (1936, 1937) はマクロ経済学の一部となった——特に流動性選好と金利の融資可能資金理論がそうだ。またストックホルム学派が利用していた「一時均衡」の概念 (ヒックス的「週」のシーケンスと、それを割る期待で定義される) も開発した。さらに資本の定式化をスウェーデン=オーストリア学派的な形で行おうとしたが、こちらはあまり成功しなかった。

 1939 年の論文で、ヒックスは「新厚生経済学」に本気で突入することになる。ここでヒックスは、いまや分配の序列を決めるための「ヒックス補償基準」と呼ばれるものを導入する。続く一連の論文 (1940, 1941, 1942, 1944, 1946, 1958) と、その集大成としての『需要理論改訂』 (1956) で、ヒックスは消費者余剰という マーシャルの発想を復活させ、厚生変化の指標として「compensating variations」「equivalent variations」を導入し拡張した。

 1950年代には、一般向けの教科書(『社会的枠組み』1942年) を書いて、各種の政策関連の試みに足を突っ込みながらも、ヒックスはマクロ経済学の研究を続け、こんどは成長理論とサイクル理論に目を向けた。ロイ・ハロッドの研究 (ヒックスはこれを1949年にレビューしている) に注目したヒックスは、『交易サイクルの理論への貢献』 (1950) を世に問うた。ここでかれは、ハロッド的な乗数アクセラレーターメカニズムに天井と床を設け、ハロッドの不安定性問題を制約して、周期的なふるまいを生み出した。まだ興味を抱き続けていたヒックスは、均衡と不均衡成長過程の問題に専念し続けた。フォン・ノイマン成長モデルと、それに関連した サミュエルソンソローの発想に出会ったヒックスは、「線形理論」に関する1960年の実に明解な検討を発表し、最も重要な点として、フォン・ノイマン・ターンパイクに関する1961年の論文を執筆した。

 成長と資本についてのヒックスの考え方は、当時ケンブリッジ資本論争で批判にさらされていた (この問題についてのヒックスの考えは 1960, 1961 を参照)。自分の考えをまとめようとしてヒックスが問うたのが『資本と成長』 (1965) だった。この第2の大著で、ヒックスはそれまでのケインズ、ハロッド、フォン・ノイマン、資本理論に関する研究をまとめあげ、さらにかなり リンダール風味をまぶして、成長理論の包括的な再検討を試みた。ヒックスの分類法——モデルを固定価格と柔軟価格に分類——はさらなる考察につながり、特に「トラバース」 (ある成長均衡から別の成長均衡への移行)の問題が出てきた。『資本と成長』第一部が書き直されて、1985年に『経済動学の手法』として改めて刊行された。

 資本と成長に関するヒックスの考察は、当時はお金を考慮していなかった (1962年論文は例外)。これを採り上げたのは、1967年の『金融理論批判的エッセー』だった。ここでヒックスはお金について、同じように明確化と最低指揮下を個於呂見た。こうした理論がどれも部分的にしか正しくないと感じたヒックスは、経済史をあさってもっとよいお金の概念を探そうとして、これにより驚異的な『経済史の理論』 (1969) と死後出版『お金の市場理論』 (1989) をまとめた。これらは、当時としては目新しい交換の融資理論を強調している。

 それでも、資本と成長は相変わらずヒックスの主要な関心だった。1970 年に少し先鞭をつけてから、ヒックスは オーストリア派経済学に目を向けて、1973年の著書『資本と時間』でオーストリア学派の資本理論再興を一人で試みた。固定資本と循環資本の両方を持つ、オーストリア学派的な資本理論を定式化しようとする試みだ。

 その後また方向性を変えたヒックスは、成長と資本の研究を続けるうちにたまってきた、重要な手法面での問題について探求を始めた。まずは時間——それも特に、時間の不可逆性と時間の中の因果関係だ。これは1976年のジョージェスイク=ローゲン記念論集への寄稿論文と、1979 年の著書『経済学における因果律』の主題となった。この本や、1974年「ケインズ経済学の危機」、1980年論文「IS-LM: 説明」など(1981-3, 1984, 1988) で、ヒックスはまさに自分が誕生を支援した新古典派ケインズ総合の前提、手法、理論を糾弾し、もっとポストケインズ派に近い方向での新しい発展を主張した。その後の一生、ヒックスは手法や経済学史の研究を中心に進めた。

 ヒックスほど広く深い遺産を残した経済学者を、どう評価したものだろうか。かれは文句なしの「経済学者の経済学者」であり、新しい「学派」を創設したとは言えない——ただしその透徹した慎重な研究に刺激された、異種融合的で批判的なネオワルラス派理論家たちの世代、たとえば森嶋ハーン根岸などを学派と考えることはできるが。でもヒックスは概ね一匹狼的な学者であり、あらゆる学派に属し、つまりはどの学派にも属していない。強いて言うなら、ヒックスの学派とは「経済学」そのものだった。

 ヒックス自身は、自分は新しい経済学なんか何も創りだしておらず、大陸学派やケインズ学派のアイデアを定式化して伝達し、自分自身の歴史的、哲学的、実務的な考察を加えただけだと主張している。ある意味で、その通りではある——だがヒックスはそれらを有益で刺激的な形で分析拡張し、その過程で経済学をも大きく変えたのだった。

 多くの点で、ヒックスの学問的な業績は、経済学かくあるべしというお手本のようなものだ。お気に入りの理論に無用な肩入れもせず、イデオロギーに拘泥することもなく、自分自身の最も厳しい批判者であり続け、どこの誰からでも学び続け、絶えず新しいアイデアを探し求めつつ、どこにもはまることがない。経済学に対するヒックスのアプリーチは、科学者、詩人、哲学者、実務家のそれぞれ最高の性質に裏打ちされていたが、こうした性質のどれか一つが過剰に出しゃばって他を圧倒することは許さなかった。この意味で、ヒックスの「万能」学者ぶりは経済学者においてまさに空前絶後と言ってよい。

 ジョン・ヒックスはほとんどの生涯をオックスフォード大学教授として過ごし、1972年には ノーベル経済学賞を、これまた珍しく価値の高い人物であるケネス・J・アローと共同受賞した。ノーベル賞選定委員会としても、これ以上のペアは望み得なかっただろう。

ジョン・ヒックス主要著作

ジョン・ヒックスに関するリソース


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