ジャン・ボーダン (Jean Bodin), 1530-1596

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J. Bodinの肖像

 ジャン・ボーダン (Jean Bodin, または Baudin または Bodinus) は 16 世紀のフランス法学者、自然法哲学者にして重商主義の先人だった。アンジェーで、ユダヤ系の裕福な職人一家に生まれたボーダンは、トゥールーズの大学でローマ法を学び、教えた (ちょうどナヴァルスがいた頃だ) が、その後 1561 年頃にパリで弁護士になった。でもボーダンはつまらない実務家じゃなかった。かれは各種の貪欲な知的好奇心を持っていて、まさに手当たり次第に何でも読みあさっていた。最初に夢中になったのは歴史で、これは 1566 年の歴史哲学に関する小冊子につながった。

 経済に対するボーダンの関心は マレストロワ (Malestroict) の著作に喚起されたもので、これは当時猛威を振るっていた全ヨーロッパのインフレが、貨幣の改鋳や削ぎ落としからくるのだ、というよくある議論を展開していた。ボーダンは 1568 年の小冊子で、こうした行為がインフレを起こすということは否定しなかったけれど、でもむしろかれはインフレがスペイン経由でヨーロッパに流れ込んでくるペルーの銀のせいだと主張したがった。ボーダンは、削ぎ落としや改鋳や銀の輸入が同じ特徴を持っていることに気がついた。どれも財に対する貨幣の量を増やすものだ。結果として、ボーダンは一般に貨幣数量説の初の記述の一つとされるものを提起し、一般的に物価水準とマネーサプライとの関係を詳述した。

 貨幣は財とは反対方向から来るので、ボーダンは財の輸出は物価を上げて、輸入はそれを下げることを認識した。だから重商主義の本質的な貿易政策は、すでにボーダンの著作で示唆されていたわけだ。物価を上げたいなら、貿易黒字を維持しなさい、というわけ。

 ボーダン自身は総論的には自由貿易のほうに好意的で、それが物価を安定させ、国々をまとめて平和をもたらすと考えていた。ボーダンはまた、小麦価格を安定させるための政府運営の消費財バッファ用備蓄方式の計画を記述し、金融基準に関する国際的な合意の計画も記述した。でも、利息禁止の解除には強硬に反対していた。

 1571 年に、ボーダンは王さまの弟、アレシオン公(後にアンジョー公)に仕えるようになり、かれと共にイギリスに渡った(エリザベス一世の宮廷で、ボーダンはほとんど道化の位を与えられそうになった)。1576-7 年に、ボーダンはブロワの全国三部会 (Third Estate in the Estates-General of Blois) で代表の地位を獲得。政治的な信条としてはミシェル・ドピタル (Michel d'Hôpital) に共感していた。かれのpolitiques 一派は、カトリック旧教同盟とカルヴァン Union という過激派の間で「第三の道」を作ろうとしていた。ボーダンは宗教戦争を激化させるよりカルヴァン派と対話すべきだと主張し、戦争資金の獲得のために王家の土地を売ることには反対した。

 この活発な政治的関与の頂点の時期に、ボーダンは高名なSix Books (1576) を著した。ここでかれは、有名な独立国の理論を展開した。これは多くの点で、全国三部会でかれが展開した政治的立場と一貫したものだった。1580 年には、魔女裁判の判事たちに向けて悪魔学「ハンドブック」を書いている。

 だがボーダンは、当時の狂信的な風潮をかなり読み違えてしまった。宗教戦争は激化して、ボーダンを含む politiques は王家の寵愛を失った。その後の政治的な騒乱の中で、ボーダンは無神論を糾弾された (これはあり得る話だ――かれは死後出版の 1558 年の小冊子で合理的な心霊主義のようなものを表明している)。ボーダンは、こうした騒動をやり過ごそうとして、1583 年にラオンの検察官として静かに隠遁した。でも 1588 年に、カトリック軍がこの町を制圧したので、ボーダンは律儀に Holy League に忠誠を鞍替えした。1594 年のアンリ四世の戴冠と、politiques の名誉回復を歓迎した――が、いまや公式に狂信者たちに所属していることなっていたボーダンは、復帰を求められなかった。ラオンでかれは、ペストのために死ぬ。

ジャン・ボーダンの主要論文

ジャン・ボーダンに関するリソース


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