貨幣数量説

Reymerswaele's Banker
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"[Monsieur Locke] a bien senti que l'abondance de l'argent encherit toute chose, mais il n'a pas recherche comment cela se fait. La grande difficulte de cette recherche consiste a savoir par quelle voie et dans quelle proportions l'augmentation de l'argent hausse le prix des choses"

(R. Cantillon, Essai sur la Nature du Commerce en General, 1755: p.160)

ジョン・スチュアート・ミルが檻から解き放ってしまった獣とも言うべき、ヒュームの「純粋」数量説を最初に拾ったのはサイモン・ニューカム (1885) で、その後最も有名になったのがアーヴィング・フィッシャーによる Purchasing Power of Money (1911) での扱いだった。この貨幣数量説は、この二人の経済学者が導入した悪名高い "交換の等式 (equation of exchange)" であっさり表現できる:

MV = PT

ここで M はお金で、V は速度、P は価格水準で T は取引水準だ。つまり古い数量説をニューカム=フィッシャーが述べ直すにあたり、3 つの基盤がある。まずはマネーサプライに対して V と T は固定されていること。第二に、お金の供給は外生であること。第三に、因果関係は左辺 (MV) から右辺 (PT) に向かうこと。

この最後の二つの基盤が一番大事だ。というのも以前見たように、リカードは最初の説は認めたけれど、因果律を逆にして、マネーサプライを内生にしたからだ。スミスソーントンヴィクセルもまた、マネーは内生にしていた。

つまり貨幣数量説のお話はこんな具合だ:V と T は固定で M は外生だから、お金の供給が増えれば価格水準は正確に比例して増える。だからマネーサプライの拡大は物価インフレを引きおこす。

でもこんな物言いは、あまり理論的基盤がないし、カンティリョンも冒頭の引用文で尋ねているとおり、これってはっきり言って、なぜそうなるわけ? この点でフィッシャーもニューカムも、ちょっと口ごもる。財の供給は、経済の「リアルな側」で与えられるし、セイの法則によって財の需要がそれに伴う。でも、なぜかは知らないけれど(その理由は一度も説明されないから)、交換にはお金が必要不可欠だってことになってる。これは制度的にそうなってる、というわけ。取引にはお金が必要で、だからエージェントたちは、取引を行うためにある程度のお金を要求する。さっきの式を変形して M/P = T/V としてやろう。ここで T/V はいまや、制度的な制約 V が与えられたときに T の水準の取引を満足させるために必要なマネー需要となる。

産出がリアル側で与えられて、お金の需要は制度的な仕組みからくるなら、V と T はほぼ固定だ。すると残った変数は M と P しかない。上の等式が常に成り立つなら、M が上がれば同じだけ P もあがる。これは貨幣数量説を述べ直したことになる。

でもこれだけですでにちょっと変だ。相変わらずカンティリョンの質問には答えていない:つまり、はっきり言ってどういう仕組みでそれが起きるの? 実はこれに対するまともな答えが出てくるのはずっと先になってからだ。でもフィッシャーは、かなりおおざっぱとは言え考え方だけは出している。M が増えて T/V が固定なら、 M/P > T/V となる。つまりお金の供給(マネーサプライ)はお金の需要よりも大きい。人々は余って供給されたお金を、あらゆる財をもっと要求することで処分する。これによりあらゆる財の価格(つまり P) は上がり、やがてその追加の需要が吸い取られる。ちなみに、マネーサプライの実質価値は実質マネー需要の水準 (T/V) に引き下ろされて、再び均衡に戻る。

つまりこの説明は、左手側の因果律を理論的に正当化するものとなる。マネーサプライの上昇は、きっかり同じ比率の価格上昇で迎えられる。これがフィッシャー (1911: p.29) 言うところの「正真正銘」貨幣数量説だ。

いくつか重要な点を指摘しておこう。まず、この話が成り立つには、T/V が安定してなきゃいけない。言い換えると、取引需要との関係で安定したマネーの需要関数が必要だ。そしてまさに、ミルトン・フリードマンとアンナ・J・シュワルツの有名な 1963 研究は、この安定した関係を実証的に明らかにしようとしたものだ (うちの マネタリズムの議論を見てね)。

第二に、アーヴィング・フィッシャーはリアル側とマネー側との二律背反を繰り返し強調している。お金はリアルの世界に影響を持たないよ、というわけ。でもフィッシャーは本気でそんなことを信じていたんだろうか? ある意味で、それは不可能だったはずだ。だって、マネーサプライが増えると財の需要が増えるって言ってるでしょ。だから財に対する「リアル」(実質)需要は、「名目」マネーに左右されちゃうってことだ。でも、これって当のフィッシャーが「お金の幻影」といってバカにしていたことでは? フィッシャーのお話はすてきだけれど、まちがってる――それはかれがセイの法則が成り立つことを前提にしているからだ。これについては後でパティンキン論争を説明するときにもっと出てくる。

でも、他にもいくつか重要な点がある。初期の貨幣数量理論家たちは、ミルを見ればわかる通り、分配の格差やセクターごとの過剰キャパシティ、金融仲介といった議論と頑張って格闘していた。厳密な貨幣数量理論は、長期的な理論でお金の「ヘリコプターばらまき」に依存するものとしか思われていなかった。特にフィッシャーは、「新しい均衡が確立した後の(そんな均衡などという条件がそもそも確立することがあるなどと言えればの話だが)永続的・究極的影響とは別に、移行期における一時的な影響」(Fisher, 1911: p. 55-6) の議論にかなりの力を割いている。かれは「『貨幣数量説』は移行期には厳密にも絶対的にも成立しない」 (Fisher, 1911: p.161) とあっさり述べている。この意味で、フィッシャーはヒュームとはちがって、後の新古典派経済学者たちが思ったほどにはこの二律背反をガチガチに信じていたわけじゃない。

フィッシャーの最も有名な発見の一つは、credit cycleで、これは各種の影響を取り入れている(ただし総需要や総産出に関するかれのすばらしい詳細がどんな影響をもたらすか知らない、ということが大きなマイナスではあるけれど)。フィッシャーのお話の主要部分は、サイクルはもっぱら、(インフレに比べて)調整のおそい金利水準によるのだ、ということだ。このお話だと、厳密な貨幣数量説はセイルつぃない。というのも速度や実質金利へのリアルな影響があるからだ(そして産出への影響もちょっとある)。でもここでも、かれが提示している考え方は移行期の現象についてだ。長期的には、調整の遅れも追いついてきて、貨幣数量説が戻ってくる。金利の変化は一対一対応で価格変化をもたらす。さもないとクレジットサイクルが生じて貨幣数量説も崩壊する。

最後に、フィッシャーのマネー需要に関する議論を強調しておこう:

「つまり貨幣数量説は究極的には、あらゆる人間の財の中でお金だけが持っている根本的な特異性に依存している――つまりそれがそれ自体では人間の欲望を満たすことはなく、欲望を満たすようなモノを買う力しかない、ということだ」

(I. Fisher, Purchasing Power of Money, 1911: p.32; 強調原文ママ)

つまり、お金は「取引需要」、つまり交換の媒体としてだけ需要されるだけだ。それ以外にお金を持ちたいという動機――投機、価値の保存、万が一のため等々――はフィッシャーのお話にはまったく含まれていない。

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