Voice 2007/7/27号

チベットの未来

(" Future Tibet" Frontline, 2007 年 7 月 27日号、pp.4-19)

N.ラム著
山形浩生訳

要約: 「チベットは大幅な経済成長を遂げていて、その繁栄ぶりは疑いようがないし、多くの人の生活水準は大幅に向上した。中国政府はチベットの発展に明らかに尽力している。一方ダライ・ラマのチベット亡命政府のプロパガンダはウソも多いし、さらにダライ・ラマが民主チベットを口にするとは片腹痛い。中国以前のチベットは、すさまじい奴隷制の民主のかけらもない代物だったのだ。かれらの政治的要求もほとんど現実味はない。チベットは中国の一部として今後も大きく発展するだろう。チベット独立など絶対ありえん」。インド誌の記事でありチベットの状況に関して異様なほど露骨な中国側見解の受け売り部分が多いものの、ダライ・ラマをうっとうしく思い、中国との関係維持改善を重視したいというインド国内の(それなりに有力な)見解を明確に示す記事として興味深い。



  十年後にチベットを訪問したら、かなりの経済発展をとげた地域となっているはずだ。生活水準もかなり上がり、産業基盤もしっかりしているだろう。農業も放牧も近代化しているはずだ。人口も教育水準は高く、文化的水準も高い。インフラの背骨もがっちりして、世界の他の地域とも結びついたネットワークを持ち、それが広大な地域の発展を支えることになる。政治的にも社会的にも安定した状態が続いているはずだ。チベットは自治区であり続ける一方で、中国にずっと強く統合され、台頭する中国がチベットの将来を左右することになる。「チベット亡命政府」の相当部分は帰国して、チベットの未来に貢献することができるだろう。そしていまから四半世紀かもっとはやく、チベットは先進社会の水準に到達するはずだ。

 こうした予想は、わたしが過去七年でチベット自治区を二回訪れた経験からも自信を持って言える。

 最初の訪問は、2000年7月に五日間にわたっての訪問で、インドのダラムサラに本拠を持つチベット亡命政府の主要なキャンペーン主張がどのくらい現実味があるかを調べるために訪れた。現実味のチェックは、「チベット独立運動」の主導者や被害者たちの主観や信仰についてではなく、キャンペーンの主要な主張のもっともらしさを調べようとしてのものだった。

  二度目の現実味チェックの機械は、2007年6月の一週間にわたる訪問だった。チベットだけでなく、比較のために青海省と雲南省のチベット系自治州も視察してきた。変化のプロセスと影響はだれの目にも明らかであり、中国全土や世界中から何百という訪問者がいた。

  現代チベットに関しては以下の五点が大きい。

  第一に、経済は急速に発展している。2006年の経済成長は少なく見積もっても 13.2 パーセント。中国全体では 10.5 パーセントにとどまっている。第二に、物質的な反映の到来と安定した人口増、生活水準の向上、教育や技能訓練の充実、その他近代化プロセス全般が、人々の生活や仕事、考え方を多きに変えているということ。特にチベット人口の多くを占める若者で顕著だ。第三の要因は、チベット自治区の内外での政治環境が、苦闘の結果として大幅に改善されたこと。第四は、青海チベット鉄道は青海省の中心都市西寧とラサとを結ぶ、 1,956 km の驚異的エンジニアリングプロジェクトだ。第五の要因は、「チベット独立」運動の思いこみだけの世界と、実際のチベットの現実との間の乖離が広がる一方だということ。このためにダライ・ラマは政治的な要求を一段下げて、統一中国の主権下における「自治」という要求をするようになっている。

  長年にわたる中心部からの孤立と波乱に満ちた歴史、経済基盤の弱さ、平均高度四〇〇〇メートル以上の独特の高原環境を持つチベットは、現在大発展中だ。昨年の GDP は 290 億元、およそ 40 億ドルにのぼる(中国全体の 2.7 兆ドルの GDP に比べればごく一部でしかないが)。穀物生産は92万トンにのぼり、同省は食料自給を達成している。地方政府副議長のチベット人ニマ・ツィレンによれば、チベット自治区の歳入は 2006 年には 14 パーセント増加し、そのうち 8 パーセントは分配されている。一人あたりの純所得は、都市部では 8,900 元(2000 年には 6,448 元)、農民や放牧民は 2,435 元(2000年には 1,331 元)だ。

  経済転換の影響は、ラサの街路を見れば一目瞭然だ。高速車両交通や、そびえたつ近代建築に商業施設。地元で「聖者の通り」として知られる八廓(バーコー)街や大昭寺(ジョカン寺)周辺の混雑したバザールを見れば反映は明らかだ。そしてダライ・ラマが長年留守にしているポタラ宮殿近辺でも同じだ。急速に発展する交通、通信、エネルギーインフラを見てもわかる。そしてラサの「酸素バー」の異名を取る、ラサ郊外の 6.2 km2 におよぶ高地の驚異、ラル湿地を見てもわかる。

  だが本当に発展の進化が問われるのは、チベットの 281 万人のうち 8 割が暮らす地方部の状況だ。訪問した村落でも、経済発展の様子は明らかだった。特に勤勉さと倹約、大家族労働、中央政府の補助金、建設ブームがもたらした新しい機会にめぐりあった農民世帯でそれは顕著だ。プラスの影響は、学校や幼稚園、チベット薬品を配付する医療センターにも見られる。チベット自治区の中南部にある、活気に満ちた穀物生産と工業化の進むシガツェ州でもそれは明らかだ。

高度世界最高の鉄道

 2000 年以来で最も大きな変化は、青海チベット鉄道だ。2007 年 7 月 1 日に開通一周年を迎えたこの鉄道のうち、青海省の海西モンゴル族チベット族自治州の都市ゴルムドと、チベットの首都を結ぶ区間は建設に5年、330 億元かかっている。世界で最も高いところを走る鉄道は、ニマ・ツィレンによれば「チベットの新しい千年紀をもたらした。2世代にわたる夢の実現であり、チベット人民には大きな重要性を持ちます。輸送コストは大幅に下がりました。チベット近代化と、中国経済と地域経済のより深い統合に向けて、大きな一歩です」とのこと。

 そして確かに大きな一歩だ。中国メディアがしばしば引き合いに出すのは、1988年のポール・セローの予言だ。「昆論山脈のおかげで、ラサまで鉄道が通ることはない」という主張を青海チベット鉄道が否定している、というわけだ。そしてこの旅行者は、よせばいいのにこうつけ加えている。「たぶんそれはよいことだろう。鉄道好きのつもりだった私だが、チベットを見てからは野生のほうがずっといいと思うようになった」。セローの外れた予言は、チベットに対するロマン主義的で何も変わらない場所という見方の典型だ。それはチベットが僻地のままアクセスもなく、謎めいた野生、「変わらぬ」文化と伝統が凍結されたままでいてほしいと願うものだ。「チベット独立」プロパガンダを鵜呑みにしたロマン主義者たちは、この鉄道をチベット文化や宗教、人口、環境に対する究極の破壊要因と考えている。

鉄道のもたらした変化

 1853年に「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」の歴史的な記事で、カール・マルクスはインドの「村落的孤立」「自給自足の惰性」「低い利便性での停滞」「社会的進歩に不可欠な欲望や努力の不在」を終えるには鉄道が大きな潜在力を持つと分析している。「インドにおいては、鉄道がまさに現代産業の前衛となるであろう」というかれの予言は有名だ。時も場所もちがうし、背景は植民地収奪に基づくものではある。さらにマルクスの「不変の」自足村落コミュニティという見方は、マルクス主義者やインドの歴史家たちに批判されている。だが鉄道がいかに状況を変えるかという分析は、現代のチベットにも当てはまるものではある。

 青海からの旅は 26 時間ほどかかる。だがこの鉄道が開通して以来、チベット自治区の貿易は75パーセントも増えた。現在では貿易総額は 3.2 億ドル、うち 1 億が輸入で 2.2 億が輸出だ。また観光客も大幅に増えている。中国内外からの観光客は 250 万人で、これは 2005 年に比べて 35 パーセントの増大だ。 2007 年にはこれが 300 万人に増えると見られ、観光収入は 5 億ドルにのぼるはずだ。

  いまやラサまでの鉄道旅行は、中国人のあこがれの一つとなっている。今年のメーデー休暇には、34 万人がチベット見物にでかけた。新華社の報道では、ポタラ宮殿の周辺道路が拡幅されたとのこと。さらにその狭く急な階段も作り直され、開館時間も延長された。またラサ市の観光局は、「700 人以上の元牧童たちに、都心のホテルで働くために顧客サービスの詰め込み講義」を行わざるを得なかった。2007 年前半は、2006 年同期比で国内観光客は 300 パーセントも増えた。

 観光や貿易に続いて投資もやってくるだろう。中国当局の予測では、2010 年までに青海チベット鉄道が、チベット自治区への貨物の 75 パーセントを輸送し、観光収入を倍増させるはずだ。かれらに言わせれば、鉄道は「発展を求めるチベット人の権利」、他の中国の発展に追いつく権利、そして外部世界に自らを開く権利を象徴している。

 今後十年で、鉄道はさらに三路線が延伸される。一つはラサと東のニンチを結ぶ路線、一つは西の シガツェを結び、第三はインドとの国境にあるヤドンを結ぶ論戦だ。五つ星級の快適さを提供する、インドの「宮殿鉄道」のような観光鉄道も具体化しており、今年中にもお目見えするかもしれない。

  鉄道以外に、新規の物理インフラの開発――国道、舗装道路、橋、送電線、通信、灌漑、近代的な家屋等々――はだれの目にも明らかだ。計画では、2010 年までにチベットのすべての町と村落の80パーセントを結ぶ「高規格国道」を作り、道路の八割を舗装することになっている。ただし高速道路は、人口密度が 2.3 人/km2 しかいない地域には不適当だと考えられている。

課題

 ラサからシガツェに向けて五時間ほど走るうちに、新旧の明らかな対比があらわとなる。携帯電話による外部との連絡は実に簡単だ、だが一方で車窓の外では、チベット人の大半の生活がメニはいる。ほとんどは泥と石の家に住み、小さな畑を耕して家畜を養っている。祈りの旗がはためき、原始的な農業と遊牧生活が基本であり、生活は最低限のものしかない。スカートは華やかで、縞のエプロン、ビーズ、ぼろぼろのカウボーイ帽、道ばたにしゃがむ人々、そしてその中を制服姿で家路につく子どもたち。220万人におよぶこうした地方住民たちの生活や労働を改革することこそ、中央政府や地方政府にとっての基本的な課題となる。

 中国の社会主義体制は、チベット自治区における「急速で一貫した健全な教育の発展」をチベット解放と 1978 年以降の改革と対外開放の確固たる成果としてあげている。ツィレンによれば、自治区の大学を含む各種教育施設には生徒が 35 万人いる。そして就学率は 96.5 パーセントであり、九年の無料義務教育は地域の 73 州のうち 46 で実現しているとのことだ。

  さらに中央政府の優遇政策のおかげで、チベット人学生 14,000 人ほどが中国20の省や州にある各種の主要高校や高等教育機関で学習できるようになった。2007 年 1 月までに、こうした地方や自治体におけるチベット人教育への支援予算は累計で 7,400 万ドルにのぼるとされる。それに加えてチベットには教師二千人と教育官僚が送り込まれている。これはインドにとって明らかなお手本だし、特にヒンズー語州は見習うべきだろう。

  チベット自治区での識字率は、推計しにくい。一部の中国人教育官僚や識字率研究者たちは、2000年から2005年にかけて全国での識字率が横ばい、下手をすると低下していることに懸念を表明している。これは職を求めての大規模移民や地方部教育のコスト上昇などが要因だ。公式推計によれば、チベット自治区での成人文盲率は2003年末で3割以下だったという。2007年の数字は不明だが、インドのヒンズー語圏に比べて悪いということはなさそうだ。

僧院と僧たち

 僧院は明らかに旧世界に属するものだが、ここにも近代化のしるしはたくさん見られる。西寧近郊の16世紀に建立されたKumbum僧院にいっても、ラサ近くの15世紀のセラ僧院に出かけても、雲南省迪慶チベット族自治州の17世紀ソンザンリンにでかけても、僧たちは伝統的な袈裟を着て、チベット仏教固有の様式化された身振りを交えた形式で経典について議論をしている。だが一方では携帯電話を持ち、聖なる部屋へのカメラ持ち込み料金を徴収し、衛星テレビを眺めて、観光客のために演じる。

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セラ僧院で伝統的な袈裟を着て、様式化された身振りを交えて経典について議論をする僧たち。

 チベット近代化のハブでもあるシガツェ市の北西郊外には、歴代パンチェン・ラマのいる壮大なタシフンゴ僧院がある。15世紀に、ツォカンパ師の弟子で初代ダライ・ラマ(ただし死後に与えられた称号)でもあるゲンドゥン・ドゥプが建立したものであり、チベット仏教主流のゲルグ派の主要僧院6つの一つだ。パンチェン・ラマ十世――かれはダライ・ラマ十四世とはちがってチベット国内にとどまり、中国政府と協力してチベットにために建設的な努力をする道を選んだ――の墓のある記念ホールにカメラを持ち込むには、125元の料金がいる。メインのカメラに加えて二台目の小型デジカメを使おうとすると、若い僧が目ざとくそれを見つけ、もう125元払わないと二台目はダメだと告げられた。

都市部と地方部のギャップ

 都市部と地方部の開発ギャップは、確かにチベットでは懸念材料だ――これは中国の他地域でも同じことである。だが中央政府からの多額の補助金と、中国のもっと発展した省や自治体からの社会セクター援助によって、そのギャップは埋まりつつある。中国は西方開発戦略を採用して、この地域の歴史的な後進性を克服しようとしている。

 ダライ・ラマと、かれの神聖政治体制の残党、および海外の支持者によるプロパガンダの大きな部分は、中国の「強権的」な政治体制と「亡命チベット」の民主的性格との対比だ。だがこれはお笑いだ。ダライ・ラマは封建的な農奴制の霊的・現世的首長なのだから。1951 年までのチベットは確実にそうした農奴制を敷いており、それを中国が解放して制圧したのだ。

旧体勢

 ダライ・ラマの神聖政治期には、土地をはじめほとんどの生産手段は、三種類の地主に押さえられていた――役人、貴族、高位のラマ僧だ。かれらは人口のわずか五パーセントでしかない。チベット人の大半は農奴や奴隷であり、1951 年には百万人にのぼった。かれらは極貧にあげぎ、主人の領有する土地の付属物とされ、教育も保健も個人の自由も、一切の地位や権利もなかった。そして無給の労働(ウラグ)を強制され、すさまじい地代を搾り取られていた。

  農業は焼き畑式。近代産業はないも同然。交通輸送はもっぱら動物や人間の背。人生はおおむね悲惨で短く、病気が猖獗をきわめ、人口は停滞し、平均寿命は 36 歳。旧チベットでは、僧侶や尼が人口の一割を占めていた。この抑圧的な封建神権制の頂点にいたのが、ダライ・ラマという制度にして個人なのだった。

  1951 年以前のチベットには、まともな学校はなかった。千年前から続く、仏教経典学習と部分的にチベット語に特化した僧院学校が教育の主要形態だった。僧院の外には役人に対してごく基本的な教育――読み書き算数と仏典暗唱――を提供する学校はないわけではなかったが、その生徒数は千人以下。当然ながら、文盲率は九割以上だった。

 これほど劣悪な社会経済状況から出発すれば、発展が早いのも当然だろう。武装蜂起とダライ・ラマの逃亡で引き起こされた 1959 年の民主改革により、農奴制と地主至上主義は廃止され、社会主義制度が段階的にチベットに導入された。これも紆余曲折があり、導入をあまりに急がせようとする「極左」的な試みもあった――特に 1966-1977 年の文化大革命は、中国の他の部分と同様に、チベットにおいても人生、経済、教育、宗教、文化的伝統にとって大幅で嘆かわしい被害を与えてしまった

  多くのチベット人は 1961-1965 年を物質的生活の「黄金時代」として記憶しているが、チベットの生活と仕事を一変させたのは、1978 年以降の経済改革と開放政策、および政治面での最近の進展だ。中国のトップ指導者だちは、自国の「西部開発」のためにもっとずっと尽力できたはずだと公式に認めている。特にチベットにはもっと支援できたはずだ、と。この地域に開発主導政策を新たに適用しはじめたのは鄧小平だった。胡耀邦は 1980 年に重要なチベット視察を行い、チベット開発の優先度をさらに上げた。そして10年後に 江沢民が視察訪問を行っている。

  胡錦涛自身、十年以上にわたって、チベットに隣接する貴州省における中国共産党組織者として活動しており、その後は中国共産党チベット自治区地域委員会の書記をつとめている。

  だが通常のチベット家庭の多くで見られるのは、毛沢東の肖像だ――かれはいまだに旧封建体制の地主や僧侶たちから農奴百万人を解放してくれた存在と考えられているからだ。また多くのチベット家庭は、ダライ・ラマ十四世の肖像と、パンチェンラマ十世と十一世の肖像を同時に掲げても特に矛盾は感じないようだ。これは2000年に訪問時には見られなかったものであり、チベットの社会政治状況が自治区内外でずっとゆるやかになってきていることを示している。

ヒルトンのシャングリラ

 そしてチベット自治区の外にあるチベット人コミュニティも、明らかに中国の経済発展の恩恵をこうむっている。 西寧は、超近代的なビルと商業複合ビルが伝統や古きものと共存しているが、まさにそれを実証するものとなっている。中国南西部の雲南省にある迪慶チベット族自治州も、驚異的な変貌をとげている。2001 年にはこの州の主要都市Zhongdian は公式にシャングリラと改名した。ジェイムズ・ヒルトンが1933年の小説「失われた地平」で有名にした伝説の土地にちなんでのことだ。この郡もまたシャングリラを名乗り、このブランドは内外の観光客を大量にこの地に呼び寄せている。

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ブランドを変えたシャングリラは、今や中国内外観光客を大量に惹きつけている。
ところで、写真中央の黄色い張り紙に書いてあることに注目。

 1997 年からの 10 年でシャングリラの経済は年率平均 12 パーセントで成長し続けたという。そして過去5年だと平均年間成長率は 20 パーセントをくだらない。Zhongdian などで出会った若いチベット人の中には、インドの難民キャンプで育ちながら、中国の大経済発展で運試しをしようと帰国した人々がいた。そのうち三人は力をあわせて、カンパキャラバン冒険旅行社を設立し、それが大繁盛している。またトレンディなエスニックレストランも開店し、次には豪華ホテルなどさらに収益をあげる商売に手を出そうとしている。

 中国共産党の現在の関心は、「調和的社会」の建設にあり、中国の「平和な台頭」の発想はダライ・ラマですら歓迎している。これは 2006 年にダライ・ラマ法王の特使ロディ・ギャルツェン・ギャリが行った演説から推測される。

 産業発展、サービス産業、教育の発展、さらには農業と牧畜の近代化、十分な雇用、全面的な貧困削減、先進的な環境保護プログラム、チベット人民の言語、文化、信仰、憲法に規定された自治権の尊重により、台頭する中国は明らかにこの自立した波乱含みの地域を全面的に発展させるだけの力を持っている。これほどの大国が、その増大するリソースを全国人口の 0.21 パーセントしかいない地域に集中させる機会はまずないだろう。しかもその人口 281 万人は、中国国土の八分の一を占める地域に散在しているのだ。

「チベット亡命政府」なるもの

 では「チベット独立運動」の未来はどうだろうか?

 「亡命チベット」なる用語は、ダラムサラに本拠を置く「チベット亡命政府」が使っているもので、インドをはじめ数カ国に分布する、ダライ・ラマの支持者とされる15万人ほどを指す。ダライ・ラマは「活仏」であり、2007年6月6日に七二歳となったが、過去数年で何度か健康上の問題を見せている。当のダライ・ラマ自身が、自分の死について各種の発言を行うことで、未来についてはっきりしない部分を広めてしまっている。ときには、自分が最後のダライ・ラマになるかもしれないと述べたし、この制度を終わらせるために「民主的」な方式を提案したりさえしている。だが一方では「わたしが亡命中に死んだら、そしてチベット人民がダライ・ラマ制度を存続させたいと願うなら、わたしの生まれ変わりは中国配下の土地では生まれないだろう(中略)生まれ変わりは(中略)外部の自由世界で生まれるだろう。これは絶対の自信をもって言える」。こうした発言は、チベット仏教の生まれ変わり教義のような神秘的宗教的領域においてさえ(そして21世紀の信者にはなかなか信じがたいものだが)、ダライ・ラマのアプローチは明らかにイデオロギーと政治に左右されている、ということをはっきり示している。

  宗教指導者としてのダライ・ラマは、確かに世界で最も顔の知られた人物だ。ローマ法王やホメイニ師にも並ぶ知名度だろう。ただしかれは、このどちらよりずっと長いこと世界の檜舞台に上がっているのだが。その双肩には何世紀もの歴史がのしかかっている。というのもかれは、明皇帝に忠誠を誓っていた蒙古の領主が16世紀に始めた「生まれ変わり」の14代目なのだ。かれは名誉称号である「ダライ」(海)を、ゲルグ派の「活仏」に与えて三代目ダライ・ラマを作り上げた (それに先立つ二人のダライ・ラマは死後にその地位を与えられた)。

  歴史的記録を見れば、ダライ・ラマという制度が政治宗教的な超権力の「化身」であり、しかもそれは中国の中央政府によって認知され、お墨付きをもらった結果としてできたものだとわかる。それが始まったのは17世紀半ば、偉大なダライ・ラマ五世が北京の清朝皇帝を表敬訪問し、正式な地位と黄金の任命書、および権力の金印を与えられたときに始まる。ダライ・ラマ十三世は、ずるがしこく信用できない政治的な役者であり、中国中央政府と介入主義的な植民地イギリスとの間で立ち回り、しばしば後者と手を結んだ。おもしろいことに1940年2月22日にテンジン・ギャツォがダライ・ラマ十四世としてポタラ宮殿で即位したとき、それに必要な証明書や認定のハンコは蒋介石の中国国民党政府からきており、さらに蒋介石は即位式の費用をまかなうために40万銀ドルを用立てているのだ。

チベットのパラドックス

 物静かで内気な宗教指導者は、1959年の武装蜂起によりチベットを逃亡するまで君臨し、その後1960年以来信奉者たちとダラムサラ――インドの「リトル・ラサ」――を拠点にしてから、完璧な公的存在と世界旅行者になった。1989 年ノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ十四世は、もっぱらチベット問題を国際的な議題として、世界的、中国内部、さらには印中関係において維持し続けている。

 政治的にはチベットはパラドックスとなっている。

 まず世界中でチベットの地位について異を唱える国や政府は一つたりともない。どの国も、チベットを中国の一部として認知しているし、ダラムサラにあるダライ・ラマの「亡命政府」にちょっとでも法的認知を与えている政府も一つもない。カシミールの法的地位について国際的な合意がないのとは好対照だ。

 チベットに関し、インドの立場は大きく進歩を遂げている。もともと英国植民地時代にははっきりした態度を取らない方針だったが、2003年にインド首相の訪中に際して印中関係に関する取り決めの一部として、インドは「一つの中国」政策を明確に認知し、「チベット自治区が中華人民共和国の領土の一部」であると認めている。またチベット人が「インド国内で反中国的な政治活動に従事すること」を禁ずるとつけ加えている。その後の政権も、2005年の温家宝首相訪印に際しての共同声明でこの立場を再確認している。

 一方で、チベットが政治問題であるのもまちがいない。これは頭の痛い国際的な側面を持っているし、中国の指導層や人民にとっての懸念であり、また国際的にも、そして部分的には国内でも、世論を分裂させてしまっている。

  この頭の痛い側面は、各種の客観的・主観的要因の相互作用からきている。ダライ・ラマの宗教的カリスマと、チベット仏教のイコン的国際地位の組み合わせ、その長寿と辛抱強さ、植民地主義者や西側勢力をはじめ、過去半世紀にわたりかれが支持してきたイデオロギー・政治的な狙い、かれの相当な資産と世界的な投資、世界各国のチベット亡命者たちが拠出するリソース、文化大革命期(1966-1976) に、チベットを含む中国全土で行われた文化的・人的被害の甚大さ、ダライ・ラマ個人とその事務所を中心に結集している「チベット独立」運動の、中道とはほど遠い性格、かれがハリウッドやメディア、立法者など西欧社会での影響力の高い人々に対してかれが持つ結びつき、そして進歩的なインド人の立場から最も頭が痛いのが、「チベット亡命政府」の活動がインドから行われているという事実だ。

反中国の政治家としてのダライ・ラマ

 中国指導層は長きにわたり、ダライ・ラマは単なる宗教指導者としてのみ評価はできないし、宗教的な側面がその主要な役割とさえ言えないと評価してきた。かれが単なる有力な宗教指導者なら、信教の自由を全市民に保証している中国憲法の枠組みに十分おさまる。だがダライ・ラマ十四世は、「大チベット」を中国から奪い去ろうと企む老獪な政治家だと評価されている――反共分離主義的政治家であり外部とのつながりの豊富な人物なのだ。

 ダライ・ラマの実績を見れば、確かにこの評価はうなずける。当初、かれは1951年の中国によるチベットの平和的解放(これは十年後にインドがゴアを平和的に解放したのに比肩できる)を受け入れた。そして「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる「十七か条協定」)を不本意ながらも受け入れ、支持した。この協定の主要な内容は、チベットを統一中国の一部として議論の余地なく認めるということだった。そしてチベット地域政府が人民解放軍に協力し、そのかわり既存の政治体制とダライ・ラマ及びパンチェン・ラマの地位と機能、権限を維持するということだった。そしてまた、驚くほどリベラルな条項として、地元政府が「自分の条件に応じて改革を進め」、それについて「中央当局からは何ら強制をしない」との規程さえあった。

分離主義的な活動

 だがインド亡命後、ダライ・ラマとそのカシャック(内閣)はその分離主義色をあらわにする。かれはチベットを「独立国」と宣言。1959年にはネルー首相の助言にもかかわらず、国連がチベットに介入するよう働きかけた。1960年には、ネパールにおける「Religious Garrisons of Four Rivers and Six Ranges」の再結成を呼びかけ、中国国家に対する軍事活動に加わることとなった。かれの「チベット亡命政府」は、「将来におけるチベット憲法草案」とそのフロント組織により、露骨に違法活動を行うと同時に、チベット人たちが「インドにおける反中国的な政治活動を行う」のを認めないというインドの長きにわたる政策をも無視し続けている。

 過去30年にわたり、高次の政治決定にしたがってダライ・ラマは世界を旅し、チベット問題の国際化に対する支援を取り付けようとして、「満足のいく公正な解決」のために各種の「現実的」な提案をおこなってきた。たとえば1987年にアメリカ議会への演説の中で発表された五項目和平プラン、そしてそれをさらに詳細にした1988年の通称ストラスブール提案。そしてストラスブール提案で表明された見解について1991年に「中国の指導層がこの問題について閉鎖的で否定的な」態度を取っているからとして「個人としてのコミットメント」を撤回するとの発言。そして1992年に鄧小平に送った感情を逆撫でするプロパガンダ的な公開書簡などだ。

 その主要な発言において、ダライ・ラマはチベットが古来より独立国だったという立場をとっている。そしてそれがアジアの中核において地域の安定を保証する戦略的な「緩衝国」だったと述べる。さらにその「独立主権」を中国をはじめどんな外国勢力にも「移譲」したことはないという。そして中国のチベット支配は「植民地」勢力による「占領」である、と。そして「チベット人民は一度も国家独立主権の喪失を受け入れてはいない」と。

「大チベット」を目指して

同じく重要な点として、かれは何度も「六百万人のチベット人」なる発言をしている。そして国策による移住政策と漢化政策によって、チベット人を自国で「少数民族」に貶めたという誤った攻撃を中国に加えている。だが事実は公式の国勢調査を見ても外国の識者や専門家にきいてもわかる通り、チベット自治区の92パーセント以上はチベット人だ。ダライ・ラマは、中国社会主義国家が「ホロコースト」を実施してチベット人百万人以上を虐殺したとすら主張している。

  かれは「大チベット」再興を要求した。これは「チョルカ・スム」として知られ、「ウツァング、カム、アマド」地域を含む。これは20世紀初頭にイギリスが行った悪名高い試みである「外チベット」と「内チベット」を再現しようというに等しい。それは中国の主権を弱め、外チベットに対する中国の「不介入」を要求し、ラサのチベット政府に僧院の統括権を与えて、内チベットの自治体首長任命権すら要求するものだ。(ダライ・ラマは明らかに亡命先のインドに配慮してはっきりと要求はしていないものの、かれの言う「大チベット」は論理的にはラダクも含む――これはかつてンガリの一部であり、何度もカシミールの侵略を受け、19世紀にはカシミール配下に置かれ、やがてカシミールの一部として1846年にイギリスのインド支配に併合されている)。

  かれは「中国軍」つまり人民解放軍が大チベットから撤退すべきだと要求し、「チベットの武装解除を保証するために地域平和会議が招集されるべきだ」と主張している。ダライ・ラマ十四世の思い通りにいけば、中国の四省を分割することで単一の「脱漢化」だれた行政区が構築され、中国領の四分の一を配下に治めることになる。ちなみにチベット自治区は中国の 1/8 を占める。

  そしてかれは、インドをこの政治的野望に巻き込もうとさえした。あるときかれはセミナーで、「チベットに対する主権は、中国よりはむしろインドが持つべきである」と発言しているのだ。

パンチェン・ラマ十一世

 伝統的な宗教的権威の行使を装いつつ、かれは他にも政治的な挑発を行っている。1995 年にダライ・ラマは、インドに亡命中に先手を打って、当然ながら会ったこともないゲンドゥン・チューキ・ニマという 6 歳の男児をパンチェン・ラマ十一世として「認知」した。だが 1995 年に中国中央政府は、ダライ・ラマとパンチェン・ラマを指名し認知する何世紀も昔からの権利を行使して、パンチェン・エルデニとしてギェンツェン・ノルブの即位を承認した。(ちなみにゲンドゥン・チューキ・ニマとその家族は行方不明となり、後に中国政府が拉致連行を認めた。現在行方が知れない。)

鄧小平の政策変更

 過去 30 年にわたり、中国指導層はダライ・ラマやその支持者の扱いについて戦略を固めてきた。1978 年 12 月、鄧小平はメディアのインタビューの中で「ダライ・ラマの帰還は認めるが、それは中国市民としてである」と述べ、「われわれの要求は一つだけ――愛国心である。そして愛国心を受け入れるのが遅かろうと早かろうと、だれでも歓迎する」と述べた。1991 年 5 月に李鵬首相は「われわれには根本的な原則は一つしかない。つまりチベットが中国の不可分な一部であるということだ。この根本的な問題については、交渉の余地はない。(中略)「チベット独立」以外ならどんなことでも議論しよう」と述べている。

 だが非公式な会談を何度か行い、ダライ・ラマの使者たちと接触して調査団を 1979-1992 年にかけて派遣し、さらにはダライ・ラマが国際舞台で行っている活動を見た結果、中国政府は 1994 年にチベットに関する第三回全国会議を開催した時点で、暫定的な結論に達した。結論は「ダライの徒党」は明らかに不誠実である、というものだった。そしてかれらはチベットと中国の分離をねらって執拗に画策しており、「中国の国際的な敵」と手を組んでチベット自治区の状況を不安定化しようとしている。そしてかれらの真の要求は独立、「準独立」または「偽装した独立」にすぎない、と。

六回にわたる会談

 だがこれで話が終わったわけではまったくない。中国の空前の経済発展、および包括的ながら緩急のある社会経済・文化政策の時代にあり、本当の意味での「チベットの独立」に対する国際政治的支援の不在のなかで、ダライ・ラマは主要な要求について取り下げざるを得なくなっている。これに対して中国中央政府と共産党は、非凡なまでの辛抱強さを見せている。このため2002年以来、ダライ・ラマと中国政府の代表者との間で六回にわたる会談が行われた。

 六回目の会談(2007/6/29-7/5) が上海と南京で開かれるに先立ち、ダライ・ラマによって「中国指導層に手を伸ばす」よう任命された団長としてのロディ・ギャルツェン・ギャリは、ワシントンのブルッキングス研究所で示唆的な演説を行った。2006年11月の発言によれば、それまでの五回の会談は相互理解を深め、「対話を新しい段階にもたらし」、「チベットと中国の人々の未来にとって相互に納得のいく決断に到達するのに不可欠なオープン性の気風を確立するのに大いに貢献した」とのこと。

 まず第一に、ダライ・ラマの代表者たちは、「中国指導層が『調和的社会』の創設を重視するという方針に勇気づけられ(中略)また中国の『平和的な台頭』により『繁栄した民主的で文化的に進歩的な近代的社会主義国』として発展しようとする発想に勇気づけられた」と述べた。また、ダライ・ラマの目下の方針は「チベットの対中関係を解決するためには、チベットの歴史を見るのではなく未来を見る」ことだと述べた。なぜなら「歴史をふりかえっても何の役にも立たない」からだという。さらにかれらは、ダライ・ラマの「中道」方針の核にあるのは「チベットが中華人民共和国の一部であるという現実を認知することであり(中略)チベットについて相互に納得のいく解決策を構築するにあたり、中国からの分離を持ち出さない」ことだと明言した。かれは「中華人民共和国の一部としてのチベットを含み、全チベット人を一つの行政区域に統合する必要性を認め、中国憲法の枠組み内でチベット人民に正真の自治権を与える重要性を認識するような解決案」に献身するという。

大きな溝

 ここには大きな溝がある。それはダライ・ラマやその取り巻きが、以下の中心的な二点について立場を大幅に改めない限り解消できないものだ。

 まず、「一国二制度」原則に基づく「高次」または「最大限」の自治という発想は、中国の憲法の枠組みや法制度とは大きくずれているということだ。もちろん、自治区が歴史的な後進性を乗りこえるために中央政府ができる支援やそれを自力で活用する手段はまだ改善の余地があるだろう。だが、ダライ・ラマが 2005 年 11 月に要求したような自治――「中央政府は国防と外交を担当すべきである。チベット人はこの面での経験がないから。だがチベット人は教育、経済開発、環境保護、宗教について全権を持つものとする」――は中国憲法の範囲内では絶対に認められないものだ。

  さらに「チベット政府をラサに設立して、公選による首長を持ち、二院制の立法府と独立司法制度を持つ」というかれの要求は、まったく相手にされていない。北京政府の二〇〇四年白書「チベットの国家地域自治」では、資本主義にしたがう香港やマカオとちがって、チベットでは別の社会体制を導入する可能性はないとされている。

  第二に、チベット自治区のチベット人 260 万人――着実に増え続け、ダライ・ラマが亡命した頃のチベット人人口の倍以上になっている――は、中国全土のチベット人人口のうちたった 4 割でしかない。チベット民族すべてのために「単一の行政区」という要求への対応として、中国政府はチベット自治区がかつてのチベット領をほぼなぞるものだという、至極もっともな指摘をしている。「大チベット」要求を認めれば、青海省、四川省、貴州省、雲南省のチベット自治政府の多い州を分割するということになる。そして人口移住というか民族浄化を行う必要がある。これは中国の国や社会、政治体制をすさまじく不安定にしてダメージを与えることになる。

 中国の副大臣級との六回目の会談を終えて、ギャリはいささか自信なさそうなコメントを発表している。「議論は真摯で腹を割ったものだった。双方は各種の論点について、お互いの立場や見方の相違点について明確に表明した。この対話プロセスは重要な地点にさしかかっている。われわれはチベット問題全般について可能な限る強く、当方の真剣な懸念を伝え、対話プロセスを前進させるために必要な実施政策について具体的な提案を行った」。そしてダライ・ラマの支持にしたがい、ダラムサラに設立した特別「タスクフォース」に対して「対話プロセスの包括的分析」を提示すると約束している。

  対話は続くだろうし、それは望ましいことだ。文化的でオープンマインドで柔軟な、肯定的態度でチベット問題の解決に当たるのは、双方とも有益だろう。2007 年 6 月のチベット訪問で、地域政府の副議長ニマ・ツィレンは、ダライ・ラマについての質問に対し、2007 年 3 月 16 日に華国鋒首相が北京の記者会見で述べた意見を引用した。「われわれはダライ・ラマの主張を聞くが、それだけではない。もっと重要なこととして、かれの行動に注目する。願わくばダライ・ラマが中国の統一とチベットの発展に貢献するような行動をとってほしい」

  民主インドもそう願わずにはいられない。

  だが「チベット独立」を望む人々にとって、未来は暗い。ダライ・ラマが自分の死について雄弁に語り、その後についても言及する以上、かれらは大きな問題を懸念することになる。十四世の後はどうしようか?

  一つ明らかなことがある。ゴアとシッキムの未来がインドのものであるのと同じく、チベット自治区や、他の四省の大きなチベット自治州の未来は――それぞれ形はちがえ――統一中国とともにあるということだ。


訳者コメント

 ちょっとアレで、『The Economist』以外の雑誌(インドのそこらの本屋にはThe Economistがなかなか置いてないのだ)。この Frontlineは、インドのオピニオン紙としてそれなりに高い評価を得ている、とのこと。今回の号も、イギリスのインド人爆弾未遂犯たちに関する記事など読ませる記事がいっぱい。しかもお値段 15 ルピー。50 円ほど。安すぎー。

 で、チベットねたである。この号の巻頭記事の訳。ただし全訳ではない。青海チベット鉄道の乗車感想文とか、一部うだうだしい部分はとばした。

 ちまたで見かけるチベットの話は、たいがいがフリーチベット系のバカ芸能人に感化された連中や、ダライ・ラマお大切のスピリチュアル系のおめでたい人々、さらには中国憎しでチベット虐殺云々と口走りたがる、小林よしのりみたいな人々ばかりが中心になっているので、なんとなくチベット亡命政府のプロパガンダを鵜呑みにしている人が多いけれど、実際はどんなもんか。この記事は隣国インドの記者が見たチベットの実像として、よくまとまっていると思う。

 もちろん二回ほどの訪問でどこまで実態がわかるか、という批判はあるだろう。記述も、特に歴史面はあまりに中国側の主張を鵜呑みにしすぎの感は強い。たとえばパンチェン・ラマの話で、中国政府による拉致拘束に触れてないとか、あと中国が昔からダライ・ラマやパンチェンラマを任命だか承認だかしてきたというのは、えー、そうでしたっけ? そこまでのアレは及んでいないはずだけど(昔の中国から見れば周辺のあらゆる国は属国か臣国か蛮国ですからねえ)。何を聞かされたにせよ、もう少し自分で調べて書けばいいのに。だがそれでも、ここまでストレートに書かれた中国側の公式見解はあまりネット方面で目に触れる機会がないので、見ておくのも一興でしょう。

 が、かつてのチベットが、僧侶と一部地主による奴隷収奪社会だったのは事実らしい。人民解放軍がやってきて地主を打倒して人々を解放したというのは総合的に見ればウソではない。あの状況で亡命するような人々の多くが、当時のチベットでどういう地位にあった人かはある程度想像がつくし、それを考えると亡命者のプロパガンダを必ずしも額面通り受け取るべきではないだろう。もちろん人民解放軍が無謬で完全無欠だったはずはなくて、各種の蛮行は当然あったでしょ。でもその後の中国研究を見れば、別に人民解放軍のやり口はチベットでだけひどかったわけじゃなくて、中国全土で同じようなものだったんだよね。

 そして歴史的な記述や経緯はどうあれ、紆余曲折の末に現在のチベットが急激に発展しているのはまちがいない事実。チベット人たちも過去にはどう虐げられてきたにせよ、いまこれだけ発展していると、たぶんそんなに不満はないはず。特に残った人たちの多くはかつての農奴や奴隷だったということを考えれば。中国だってチベットの観光資源としての有望性は十分に承知しているし、今後はもうやたら滅多に寺院を弾圧したりといった行動には出ないだろう。ちなみにウィキペディアはチベット亡命政府シンパの記述になっていて、もちろんかつてのチベットの収奪社会状況については一切触れないし、経済発展についてもこんな記述がある:

「胡耀邦総書記の指示により本格的な経済支援が開始され、現在まで継続している。しかし、これは民族問題を封じ込めるための懐柔策だという見方が多い。青海省とラサを結ぶチベット初の鉄道(「青蔵鉄道」全長1956キロ)が建設され、2006年7月1日に全線開通したが、亡命政府側は同化政策の強化と見ており、批判している。」

だそうだけれど、はあ? じゃあチベットが経済支援なしでずっと貧しいままのほうがよかったとでも言うつもり? 鉄道もできずにいつまでもチベットを僻地のままにしておくほうがよい、と亡命政府は言いたいわけだ。かれらは実は本当にチベットの人々のことなんか考えてなくて、自分のイデオロギーのためには人民の生活なんかいくらでも犠牲にしていいと思っているのが、この記述からも如実にうかがえる。そしてこの記事中にもあるけれど、もし万が一独立したら、同化政策に反対している亡命政府は、その国をどうするの? 民族浄化する?

 もちろん、亡命政府が対外的に騒ぐからこそ中国政府も体面に配慮していろいろチベット発展のために尽力するという面はあるんだろうから、まあ各種活動もまったく無駄ではないのかもしれないし、間接的には故国発展に貢献しているとはいえるのかもしれない。だが実際問題として、かれらの主張って本当にあり得るの? これだけの発展を前にして、チベットにいるチベット人たちが本当に独立したがるかというのは疑問なところ。昔のチベット亡命者の証言とかはさておき、いまチベットに暮らしている人たちはどうかね。いまからチベットを独立分離させて体制を築き直すのが本当にいいことなのか? どう考えても現状より状況がよくなるとは思えない。そしてこの記事のポイントは、インドがすでに隣国としてもっと中国との関係を重視したいと考えていて、インド国内を本拠に活動するダライ・ラマ一派をうっとうしく思っていることがそろそろ公然と表明されるようになっているということ。

  なお……この記事でもう一つおもしろいのは、あちこちで顔を見せる自国インドへの言及。イギリスを引き合いに出すことで印象操作を試みている部分が何カ所かあるのが味わい深い。またカシミールの話、そして最後に出てくる、シッキムとゴアの話も意味深。特にシッキムは、かつて「エコノミスト」の記事紹介で言及したブータンが極端な純血政策を取っている大きな原因ともなっている大変におもしろいところ(だから現在でも入る時には特別許可証がいる)。ゴアも調べるとなんかありそうだ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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