世界の経済格差

格差は増えたか減ったか?

Mar 11th 2004
From The Economist print edition

Panos

世界の経済格差は悪化しているのか改善しているのか?

 資本主義批判者は、世界中の貧富の格差はどんどん拡大していると思いこんでいる。かれらにとって、この主張はほとんど信仰告白に等しい。経済格差の拡大は、「システム」の道徳的破産の確固たる証拠である、というわけだ。経済格差が広がっていてもそれが資本主義をこうして批判する理由になるか、というのはそれ自体考えてみるべき問題ではある。そしてそれを疑問視すべき理由もある。だが、もっと狭い事実を巡る問題の答を知るのも興味深いことだ。資本主義が世界の経済格差を悪化させるというお馴染みの主張は、本当にホントなんだろうか?

 残念ながら、一見すると素直なこの質問は、思ったよりも答えるのが難しい。困難の元は大きく三つある。第一の問題は、発展途上国の人々、特に最貧困層の人々がどれだけ消費しているかをどう調べるかという問題だ。第二は、国同士を長期にわたってきちんと比較できるように消費の尺度をそろえること。そして第三は要するに、そもそも何を比較するのが適切かということだ。たとえば、重要なのは各国間の経済格差が広がっていることなのか、それともその居住国を問わず世界の個人間の経済格差が広がっているということなのか? 世界経済格差についての主張を理解するには、この三つの問題すべてについて研究者がどう対処したかをはっきり理解することが必須となる。

 第三の問題は、当初から強調しておく価値がある。ちょっと考えてみると、この点がいかに混乱を招きやすいかよくわかる。仮に各国間の格差が本当に拡大しているとしよう(つまり金持ち諸国と最貧諸国との平均所得の差が、人口変化を考慮しなくても広がっているということ)。さらに個別の国すべてにおいて、国内の経済格差も広がっているとしよう。国同士の格差も開いていて、国の中の格差も悪化しつつあるなら、世界の個人間の経済格差も当然広がっていると考えざるを得ない、でしょ? いや。実はそれがちがうのだ。最初の二つの仮定が正しくても、世界個人間の経済格差が縮まっている可能性は十分にある。

 どうしてそんなことが? もう一つ仮定を加えるだけでいい。つまり、世界の貧困者の相当部分を占めていた貧困国の一部が急成長していたらどうだろう。たとえば、インドと中国の平均所得が、裕福な先進国の平均所得よりもずっと急速に成長していた場合を考えよう。この場合、経済格差はインドと中国を含めすべての国で拡大しているかもしれないし、最貧国(サハラ以南のアフリカ)と最裕福国(欧米)との差も拡大しているかもしれない。だが同時に、世界の各個人を並べてみると、その格差は急速に低下しているかもしれない。というのも、最も人口の多い貧困国の平均所得が急速に上がっているからだ。

 そして奇しくも、インドと中国の平均所得はきわめて急速に増えている。だから他に何もわからなくても、「グローバルな格差」の拡大などと自信たっぷりに主張されるものについては眉にツバをつけるべきだ。

見えにくい実態

 弊誌The Economistの注意深い読者であれば、以下のグラフに見覚えがあるだろう(初出は 2003 年初頭に IMF の副総裁(当時)スタンリー・フィッシャーがアメリカ経済学会で行ったプレゼンテーションだ。これについては弊誌 2003 年 8 月 23 日号の 記事でとりあげた。) これを再掲することについて弁明はしない。このグラフは目下の問題を取り巻く統計の見えにくさの相当部分を消し去ってくれるからだ。

 どちらの図でも、横軸は 1980 年の一人あたり GDP で、縦軸は 1980-2000 におけるインフレ調整済みの一人あたり GDP 成長率を示す。まずは図 1に注目して欲しい。ここでは各国が一つの点として表現されている。

所得と成長の関係

 もし平均で、1980 年から 2000 年にかけての貧困国での所得が、先進国に比べて急速にのびたのであれば、図 1 の点は右下がりになるはずだ。そうなっていれば、貧困国が平均で見れば追いついてきたと言える――そして国同士の経済格差は縮まりつつあったと言えるだろう。ところが、最初の図を見ればわかるように、貧困国は平均で追いついたりしていない。フィットの最適な線を引いてみると、実際には右肩上がりになる。つまり貧困国は取り残され、国同士の格差は悪化しているわけだ。

 だがこんどは図2を見て欲しい。こちらも同じデータだが、それぞれの点の面積が人口に比例させてある。インドと中国は、どっちも人口が莫大なので抜きんでているし、また 1980 年代と 1990 年代の成長ぶりが他の貧困国よりずっと高かったので目立っている。人口を加重してフィットする線を描いてみれば、今度は右肩下がりとなり、途上国が追いついてきて、不平等はせばまっているということになる。

 つまり、中国とインドが 1980 年以来、そして 1990 年以降は特に急成長したことを考え、さらにこの二ヶ国で世界の貧困者の相当部分を占めることを考えれば、グローバル資本主義批判者たちの願うほど貧困や経済格差について悲観的になるのはむずかしい。要するにこの批判者たちは、図 2 に登場する追加情報から目を背けなければそういう結論は出ない。

 しかし残念ながら、フィッシャーの見事な図は、貧困そのものについては何も言っていない。中国人口、あるいはアメリカでもどこでも、そのうちどれだけが貧乏なのかについては何も情報がない。そして個別の国における成長が、そこの貧乏な住民にとっていいことかどうかについても何も言わない(もちろん成長は定義からして所得を引き上げるが)。こうした問題をもっと慎重にミルには、面倒な統計と計量経済をかきわけていく必要がある。

物差しの問題

 世界の貧困と経済格差をめぐる経済学者同士の、しばしば熾烈になりがちな論争の多くは、よく見ると細かい技術的な問題一つをめぐるものだ:消費(つまりは生活水準)を計るのに、国民経済計算のデータを使うのがいいのか、それとも家計調査からのデータを使うのがいいのか? 両者は本来は帳尻があうはずだ。でも実際には系統的に誤差を持つし、その誤差も半端ではない。さらに困ったことに、消費水準そのものではなく消費の成長はどちらの情報源を使うかによって、はっきりとちがってきてしまう。国民経済計算のデータは、家計調査のデータよりも貧困についてずっと楽観的なトレンドを示す場合がほとんどなのだ。

 同じく、プリンストン大学のアンガス・ディートンによる文献サーベイ (ディートン氏はおそらく、この分野の現職経済学者の中で、両サイドから権威ある存在と認識され、さらにイデオロギー的な偏りもないと認められている唯一の人物だろう) では、二種類の研究が対比されている。一つめは国民経済計算のデータを主に使うもので、もう一つは家系調査をもっぱら利用するものだ。両者の結果は一致しない。

 スルジット・バッラ (Surjit Bhalla) の研究、ザビエル・サラ=イ=マーチン (Xavier Sala-i-Martin) の研究、フランシス・ブルギニョンとクリスチャン・モリソン (Francis Bourguignon and Christian Morrisson) の研究は、グローバル資本主義の新黄金期たる 1980 年代と 1990 年代を通じて急速な――それどころか前代未聞の――貧困減少を示している。これらの論文によると、一日1ドル以下(インフレ調整済み)で生活している世界人口比はすさまじく減少し、発展途上国での人口増を相殺してあまりあるほどだ。言い換えると、貧困者の数は、世界人口に占める比率だけでなく、驚くことに絶対数でも減っているわけだ。

 たとえばサラ=イ=マーチンの計算だと、最貧困(一日1ドル以下)で生活している人々の比率は、1970 年には 17% だったのが、1998 年には 7% になった。1 日 2 ドル以下の人々の比率は 41% から 19% に低下。同じ推計によれば、一日1ドルの貧困者数は、全世界で2億人減少し (図 3 を参照)、1 日 2 ドル以下の貧困者は 3.5 億人減った。バッラの研究での貧困者減少の推計はこれらの研究の中でも最大だ。国連が 2000 年に、ミレニアム開発目標 (MDG) ――1 日 1ドル以下の貧困者数を 2015 年までに 1990 年から半減させるという目標――を掲げた時点で、その目標はすでに達成されてしまっていたのです、とかれは皮肉っぽく述べている。

世銀とサラ=イ=マーチンの貧困推計比較

 だが、二番目のずっと広く引用されている推計値から出てくる図式はまったくちがう。家計の直接調査をもとに世界銀行が行ったこの計算は、ミレニアム開発目標に向けての進捗を図ろうとする国連のお墨付きを得ている。そしてこちらを見ると、ここ数十年で貧困はほとんど削減されていないようだ。

 世界銀行の推計がどういう考え方に基づいているかは、同行のシャオフア・チェン (Shaohua Chen) とマーチン・ラヴァリオン (Martin Ravallion) の論文に詳しい。著者たちは、一日1ドル以下で生活している人々の比率を、1987 年時点で 28%――サラ=イ=マーチンの結果より遙かに高い――としている。1998 年には、貧困者比率は実は減っていた(グローバル資本主義がどんなに酷いか嘆く人々の発言を聞いていると、とてもそうは思えないだろうが)。ただし、24% になっただけだ。サラ=イ=マーチンの数字はこれがたったの 7% だ。

 このずれは、一日一ドルという敷居値にあまりこだわりすぎるのが危険であることを示してくれる。世界の所得分布の中でこのあたりは大きな山になっている。これだけでも、データ源を変えたり公式の貧困水準を動かしたりするだけで、数字が大きく変わりかねないことがわかる。だからこうした数字をどれも神聖不可侵なものとして扱わないことが肝心だ。

 それでも疑問は残る。なんで両者の数字はこんなに開きが大きいの? いくつかの理由がある。まず、、世界銀行は「所得の貧困」ではなく「消費の貧困」を計ろうとしている。貧困者が貯蓄をすれば、消費はその分だけ所得よりも減るから、世界銀行の定義のほうが貧困者は増える。また、世界銀行は貧困者比率を、発展途上国の人口比率で表現している。サラ=イ=マーチンは、全世界の人口を分母にしている。結果として、他が同じでもサラ=イ=マーチンの推計する比率の数字は世界銀行より小さくなる。国のサンプルもそれぞれの研究でちがっている。そしてそれに輪をかけて、推計を国民経済計算から出すか、家計調査から出すかという問題が出てくる。

 チェン・ラヴァリオンの研究で、なぜ家計調査による貧困の減り方が相対的に遅いのかを検討すると参考になる。それは国内の経済格差が増えたからではない――つまり平均消費の急成長が金持ちによって独り占めされるようなことはなかった。平均消費の成長が、国民経済計算から判断されるものよりも小さかったからだ。チェン・ラヴァリオンのサンプルにおける一人あたり消費の成長率は、家計調査によれば 1987 年から 1998 年の間で年間1%以下だった。国民経済計算に基づく一人あたり消費の成長率は、年率 3% 以上だ。

 ディートンは、大量の新データはいまのところ問題を解決できていないという。「新データは相互に矛盾しているから」とのこと。まとめとしてかれはこう述べる:「家計調査がまちがっていて、国民経済計算が正しければ、経済格差が拡大しているならそれはデータに表れない形によるものか、あるいは一日 1 ドルの勘定で示されるよりも貧困が急速に減ったかのどちらかだ。家計調査のほうが正しければ、1990 年代の成長はわれわれが思っていたよりもずっと低いことになる」

 どっちのデータ源のほうが本質的にいい悪いと論じるのはまちがっている。こうした調査は、設計がまずかったり変化したり、サンプルがずれたり、調査の実施方法がまずかったりで、誤差が入りやすい。だが国民経済計算も、特に貧困国ではやはり欠点がある。たとえば、非市場的な収入や消費は捉え損ねる。だから貧困者の消費を過小評価しやすくなるし、また所得が増えて、市場取引の範疇に入る活動が増えるにつれて、消費の成長率も過大評価される。

お好きな方をお選びください

 とはいえ、家計調査による推計と国民経済計算に基づく推計との差――調査によるほうが一貫して貧困トレンド的に悲観的な結果を出す――は、おそらくは人々が豊かになるにつれて、この手の調査に答えなくなる(正直に答えなかったり、まったく回答しなかったり)する点が大きいだろう。結果として、国が豊かになると、「調査に基づく消費」と「国民経済計算に基づく消費」の比率は下がることが知られている。最貧国で両者の数字が近いことはこれと一貫性を持っている。

 ディートンは、両方のデータを使おうと論じる。ただしそれをきちんと組み合わせるのはいろいろ難しい技術的な問題を引き起こすだろうが。一方で、世界の貧困や経済格差に関する真相は、おそらくこの両手法が示す両極端の間あたりにあるのだろう。

 少なくとも結論できるのは、国連その他の機関が使っている公式の世界銀行データは悲観的すぎるということだ。貧困はおそらく、広く引用されている数字よりも急速に減ってきたし、それは世界人口増大にもかかわらず、一日1ドル以下で暮らす人々の絶対数を減らすくらい急速だった可能性も高い。もっと厳密な答えを出すには、もっと研究を進める必要がある。だがそれまでは、世界の貧困に関する公式な立場は、最低でもこうした数字をめぐるあいまいさを認識することと、真相は公式の数字よりもよい可能性が高いことを認めることから始めるべきだ。

問題はそんなことじゃない?

 だが、グローバル資本主義が貧困者を犠牲にして前進しているのではないかという恐れはどうだろう? 本当の数字を見れば、こちらの恐怖も無根拠なのはほぼまちがいない――だがもっと悲観的な公式数字のほうが正しかったとしても、そこから反グローバリズム論者たちが引きだす結論を問い直す価値はある。成長はしていても、貧困が世銀の主張するほどしつこいものなら、それをグローバル資本主義のせいにするのは筋が通っているだろうか?

 いや全然。どんな推計を見ても、貧困が最も猖獗を極めているのはサハラ以南のアフリカだ。もう一度図1 と図 2 を見て欲しい。白丸で表現されているのがサハラ以南のアフリカだ。これらは世界最貧困国であるばかりか、経済成長が最も低い国でもある。こうした国々がグローバル化の犠牲になっていると本気で言えるだろうか? サハラ以南のアフリカ諸国は、歴史的経緯や成り行きや、そしてかなりの部分が自分自身や他の政府による政策のおかげで、その他世界経済からかなり孤立している。これを考えると、かれらがグローバル化の犠牲だというのは変な主張だ。サハラ以南のアフリカははっきり言って、グローバル化で苦しんでいるのではなく、グローバル化不足で苦しんでいるのだ。焦点は国際経済との結びつきがもたらす便益をどうやってこの地域にも広めるかということであるべきだ。裕福な国がこれらの諸国と貿易しにくくしている貿易障壁を廃止すれば、出発点としては上出来だ。

 それに対し、インドと中国を見ると、国際経済統合の恩恵がどれほどすごいものかわかる。どちらの国も、自由市場経済のお手本ではない――まったくほど遠い存在だ。しかしどちらの国も、貿易と外国投資の両方の面で、グローバル経済が差し出した機会を活かす未知を意識的に選んできたことは否定しがたい。所得が上がれば、最貧困層の生活水準は低めでゼロの場合もあるから、両国とも所得格差は広がった。特に都市部と地方部のギャップは最近になって開いている。

 これは一時的な現象かもしれない。だが、仮にそうでなかったとしよう。格差は開き続けるとしよう。さてその場合でも、格差が広がっているからといって、インドと中国が過去20年にわたりまちがった道を歩んできたと結論できるだろうか? まさか。アフリカを見れば、経済格差よりひどいものがあることはすぐに理解できるだろう。

訳者注:これに対する世銀のコメントも必読!


脚注


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