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援助からの自立の幻想にすがるエリトリア。

(The Economist Vol 379, No. 8475 (2006/4/29), "A myth of self-reliance," p. 50) Eritrea

山形浩生訳 (hiyori13@alum.mit.edu)

エリトリア政府のプライドの代償を支払わされるのは、エリトリアの人々だ。

 秘密主義的な元ゲリラのエリトリア政府は、昔から本心を隠すのにたけていた。が、エリトリアの開発援助 (ODA) に対する態度は、異様なほど変な代物になりつつある。世界で最貧国の一つで、人口の一部はいまや食糧不足に直面しているというのに、エリトリアは意図的に援助を拒否しているのだ。

  今週、国連の「対アフリカの角特別人道援助使節」であるクジェル・マグネ・モンデヴィクが初めてエリトリアを訪れたが、この地で国連は困ったジレンマに直面している。エリトリア人たちは疲弊して腹をすかせているのに、政府は自立政策という呪文にこだわりつづけている。

  2005年諸島に、国連はエリトリアの人口 360 万人のうち、2/3 が食料援助を必要していると推計した。これでエリトリアは世界で最も食料援助依存度の高い国の一つとなる。その後、独立調査は一切許されなくなったが、援助関係者によると、今年は収穫はましだったものの、食料を行き渡らせるには全然足りないとか。いまはまだだれも飢え死にはいないが、そろそろ飢餓が広がり始めている徴候は出ているという。

  だが外国政府や援助機関と協力するかわりに、エリトリアは去年 USAID (アメリカの援助機関) を国外追放し、食料援助を受けている人々の数も 130 万人から 7.2 万人へと大幅に削減し、さらに少なくとも 11 の援助機関に活動中止を申し渡している。その間、援助食料は倉庫で腐り、追加の輸入はないも同然となっている。

  政府は、自分たちは国民の面倒をいちばんよく見られる立場にいるのであると言い続けており、国連は自分たちの失敗から気をそらそうとしているのだと糾弾している。6 年前に、悲惨な国境戦争の果てに、エチオピアとエリトリアは国連の支援する国際的な取り決めを尊重して、国境線を固めることに合意した。だがエチオピアは追加の教義なしに取り決めを尊重するのを拒否しており、エリトリアは怒っている。エリトリアは、遙かに大きな隣国に対してこれ以上戦っても勝てない。したがって、かわりに国連や西側諸国に怒りを向けて、エチオピアに言うことをきかせられないと言って糾弾しているわけだ。今週エリトリア政府は、倉庫に積まれた食料援助を放出させてくれというボンデヴィク氏の要望を断った。

  昨年、エリトリアはエチオピアに隣接する分離地帯の国連ヘリコプターの離陸を封鎖し、平和維持担当車を数名国外排除した。緊張が高まったせいで国際的な関心も引きつけたが、問題解決に向けた動きはほとんど進んでいない。

  アナリストたちは、最高でも政府の能力を疑問視している。最悪の場合にはその意図、特に自国民に対する意図を疑問視している。先月、エリトリアの大統領弁務官の一人は、最近の大規模援助機関3つに対する活動停止命令が、何やら効率性を高めて援助の効果を最大化できるのだ、という珍妙な意見を述べていたとされる。だがその命令を受けた援助機関――アメリカ慈悲団 (American Mercy Corps), アイルランドの慈善団体コンサーン、イギリスの団体アコード――は、これまでエリトリアで最高の仕事をしてきた団体であり、同国の最も沿革地域で、最も弱い立場にいる何万人に対して支援を提供してきた。

  政府が国内旅行に制限をかけているため、同国内の遠隔地にたどりつけるのは援助関係者だけという場合も多い。したがって、慈善団体三つを追放するのは、今後派生するはずの人道上の悲惨な事態についての報道をごまかすための手段なのかもしれない。このアフリカで最も若い国が自立を実際には実現できなくても、その幻想くらいは作りだそうというわけだ。


解説

 現在の援助に絶望した、イースタリーのような論者はあちこちで「いままでの援助は駄目だ、援助漬けが国を駄目にしている、従来型の援助はもうやめてその国の自助努力を重視、自立性を持たせ、オーナーシップを」といった議論をするんだが、この記事でわかる通り、そもそも援助を受ける国の多くは、自助努力や自立できるほどの能力なんかないのだ、という悲しい現実がある。確かにそうした国に援助するからさらに依存度が上がるんだとも言えるが、ここで援助を打ち切ったら結局国民が苦しむだけ、というのもまた明らかな事実。よいインセンティブがない? 人々は飢えたくないと思うでしょ? それで状況は変わってる? ぼくはイースタリーは特に「インセンティブ」ということばを融通無碍に使いすぎていて、ほとんどあらゆる場面で単に「やる気」と言い換えても同じになっているので、かれの議論はまったく現実的な意義を持たなくなっていると思うのだ。


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