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Courier Japon, 60
Courier 2009/09,
表紙はパリ特集で青地に赤いエッフェル塔

そろそろ現実の話をしようか:世界最高のビジネス誌「The Economistを読む」 連載第14 回

マクナマラ追悼

(『クーリエジャポン』2009/09号 #60)

山形浩生



 『エコノミスト』の楽しみの一つ、というと不謹慎だが、でも楽しみとしか言いようがないのが追悼欄だ。普通の新聞や雑誌のお悔やみ欄とはまったくちがう。毎週一人 もちろん最近のキング・オブ・ポップやマルセル・マルソーを始めとする芸能ネタ、世界各国の政治家や平和活動家、ミルトン・フリードマンのような経済学者、シドニー・オペラハウスを設計した建築家、イブ・サンローランのようなデザイナー。そのそれぞれが、通り一遍の業績紹介にとどまらず、どういう時代背景の中で何を変えたか、何を体現していたか、そしてどこに限界があったか。単純に有名な偉人だけではない。先日は、プーチン批判をしたら突然射殺されてしまったロシアの若きジャーナリストが採り上げられていた。そして彼女の死にあらわれた、古いロシアと新しい世代のロシアとの拮抗が実に見事に描き出されていた。

 一方で……こういう欄にすらジョークネタを仕込まずにいられないのがイギリスのえらいところ。しばらく前に、巨乳アホ女優として名高いアンナ・ニコール・スミスがいきなり登場して、不謹慎ながら大受けを取ったこともある(読者の声欄では読者が大喜び)。

 でもそのいずれの場合にも、一方的な絶賛でもなく、罵倒でもなく、業績だけにとどまらない人間的な悩みまでとらえた、非常に含蓄の深い追悼文となっているのは『エコノミスト』ならでは。その一例を、七月六日に他界したロバート・マクナマラの追悼文で見ていただこう。

ロバート・マクナマラ

(The Economist Vol , No. (2009/03/21), "" pp.72)

ロバート・マクナマラは「定量化」ということばが大好きだった。数字はほとんどあらゆる人間活動を表現できる。若々しい海の旅の苦労(南京虫に噛まれた跡が片脚に一九カ所)、ホイットニー山を登る喜び(高さ一四四九五フィートすべて)はあらわせる。箇条書きの五項目か六項目で、かれはどんな議論でもまとめあげた。国防総省を含め、どんな組織の思考でも変えられるマクナマラの四ステップがある。目的を述べ、そこへの到達方法を考案し、すべてのコストを計上し、計画に対する進捗状況を系統的にモニタし続ける。ベトナム戦争から学べる教訓は十一個あったが、そのほとんどはマクナマラには手遅れだった。

 数えられるものは数えるべきだ、とマクナマラは述べた。フォード自動車で、かれは一九四六年に会社に揺さぶりをかけるためにつれてこられた、十人の「天才児」の一人だった。マクナマラはシボレーの新モデルを分解し、部品すべてをテーブルに並べさせた。一九四三年から四五年にかけて働いた空軍統計制御局では、Bー29による爆撃遠征が、どの高度から標的にどのくらいの精度で命中したかを数えた(横浜では五十八%、東京では五十一%)。一九六五年に国防総省にくると、またもや計量手法の適用——命中した標的、捕虜数、捕獲武器数、敵の死傷者数——を使って、マクナマラは同じくらいの確度でアメリカが負けつつあることを理解できた。

 アメリカの同盟軍たる南ベトナム人は、数字にいい加減だった。だからマクナマラは苛立った。敵ベトコンは、兵の一人一人に数えさせた。一九六五年のアメリカによるじゅうたん爆撃にもかかわらず、ベトナム軍は一日二百トンの物資供給を得ており、国中に五十五ガロン入りのドラム缶に入れた石油の備蓄を何百カ所にも散在させていた。国の健康における小農民の努力の重要性も、かれが一九六八年から八一年にかけて世界銀行総裁を務めたときに認識したことで、結果として世界銀行は資金を地方開発に向けたのだった。

 マクナマラは「啓蒙された伝統主義者」を自認していた。フォードの誘いでビジネス界に入り、ケネディの誘いでまずは財務省、ついで国防総省に入らなければ、ハーバード大学で経済学の教授になっていたかもしれない。ケネディ部隊に加わって間もなく、かれは大統領の権限を示すちょっとしたグラフを描いて見せた。縦軸は権力、横軸は予想される就任二期。そしてその権力の有効性は、その二期の間に右肩下がりとなる。残念ながら、マクナマラの描いた横軸は長すぎたのだが。

 重視した数字につれない仕打ちを受けるのが、マクナマラの常ではあった。フォードではエドセル。テールフィンに、みっともない四角いスタイルの車で、発表の一九五八年にはたった六万八〇四五台しか売れず、二年目には四万七四九六台にとどまり、もっと小型で安いファルコンに取って代わられた。国防総省に一九六一年にやってきたとき、かれは評価すべき九九の項目を掲げていたが、五五〇億ドルの予算をシステム分析と五カ年計画で削らなくてはならなかった。

 だが最悪の数字が出てきたのは一九六〇年代半ば頃、ベトナム駐留のウィリアム・ウェストモーランド将軍の出す増える一方の各種要求だった。一九六五年末には兵員二十一万、一九六六年十二月には四十一万。戦死者数は月四百人から五百人で、増える一方だ。マクナマラは、戦争に勝てという命令を受けて、統計から導かれた消耗戦略にしがみつき、兵の増強を認めた。だが企業人的な効率性はしばしば揺らいだ。閣僚会議では、特に「荒くれ」リンドン・ジョンソン(写真左)といっしょだと、しばしば不安そうにズボンを引き上げ、ため息をつき、両手で頭を抱えた。すべてが崩壊していった。一九六八年に「ウェスティ」将軍がさらに二十万人の増員を要求すると、マクナマラは辞任した。一時は「マクナマラの戦争」の責任は自分が喜んで負うと述べていた。だが後に、後悔に満ちた回想記やインタビューで、かれは自分が戦争自体の変数を理解していなかったことを認めた。

 ベトナム戦争の頂点で、かれは赤ん坊を焼き殺すと責められた。かれの息子はマクナマラに反対するデモに参加した。ジャッキー・ケネディはあるとき、かれの胸ぐらをげんこつで叩いて「虐殺をやめて」と泣いた。どれもつらいことだった。かれは生まれつきのリベラル派で、べこべこのフォードを運転し、大学郊外に暮らし、読書会の推薦図書はカミュ『異邦人』だった。戦争などしたがるタイプの人間ではなかったのだ。

 各種の目標設定や評価、慎重な計数と費用便益計算のなかに普通の人間がたっているのだ、という発想にマクナマラは脅かされてきた。その普通の人間は予想がつかなかった。一九六二年のキューバミサイル危機のとき、かれは閣僚会議の一員だったが「ケネディは合理的だった。フルシチョフは合理的だった。カストロは合理的だった」。にもかかわらず、この三人は世界を滅亡のふちに追いやった。「合理性ではわれわれを救えない」とかれは結論した。救うのはひょっとしたら、かれがケネディに見いだして愛した、各種のちょっとした気まぐれなのかもしれない。ケネディは突然優しくなり、驚いて見せ、直感に頼り、そしてマクナマラの自信たっぷりの計算結果をしばしばあっさり無視したのだった。


 ロバート・マクナマラを、ベトナム戦争の主犯格として糾弾するのは簡単だし、またそういう採り上げ方をした追悼記事はいくつか見かけた。でもこの追悼文は、マクナマラが決して戦争をしたかったわけではないことを描く。合理性に頼ろうとしつつ、合理性にも裏切られ、そして不合理な人間にも裏切られ、かれもまた悩める一人の人間ではあった。それでベトナム戦争におけるかれの役割が正当化されるわけではないのだけれど。そしてかれの合理性というのは、二十世紀半ばのアメリカ——そして世界——のオブセッションを体現するものでもあり、いまなお市場の合理性を通じてぼくたちを動かし、そしてぼくたちを裏切っている。マクナマラの悩みと苦しみは、そのままぼくたちの(チンケかもしれないが)悩みでもあり、苦しみでもある。マクナマラのこだわった数字を大量にちりばめ、追悼文自体にマクナマラを体現させたこの見事な追悼文は、そこまでそれとなく示唆するのだ。


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