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Courier Japon, 48
Courier 2008/09,
表紙はパリ特集で青地に赤いエッフェル塔

そろそろ現実の話をしようか:世界最高のビジネス誌「The Economistを読む」 連載第16 回

メディカルツーリズム花盛り

(『クーリエジャポン』2008/09号 #48)

山形浩生



 多くのみなさんは、海外旅行のときに掛け捨ての保険に入るだろう。当然ながら多くの人は、一度もそのお世話になることなく無傷で帰国する。

 だが、ぼくの友人のバックパッカーは二〇年前からおもしろいことをしていた。拠点としているバンコクで、帰国前に必ず「体調がなんだか悪い」と仮病を使って大病院にでかけ、全身チェックを受けるのだ。悪いところが見つからなければ結構、見つかればそこで直す。費用はもちろん、掛け捨て保険がすべてカバー。「これがあたしの人間ドック。日本の年寄りだらけの古い病院なんかよりよっぽどしっかりしてるし、病院のベッドもふかふかで寝心地最高!」とのこと。

 当時はそれを聞いて「しっかり保険料の元をとっててえらいなあ」と思っただけだった。だが今にして思えば、彼女は実は、世界のトレンドをはるかに先取りしていたのかもしれない、というのが今回の記事。

高度医療は海外で?

 ヘルスケアの未来はますますグローバル化しつつある。今後数年で、世界の医療投資や医療スタッフ、そして患者もますます国境を越えるようになるだろう――そしてそのそれぞれに、大きな経済便益とよりよい医療をもたらすはずだ。中でもいま増えつつあるのは、中でも患者の越境だ。かつては金持ちにしか許されていなかった特権が、いまや中流アメリカ人にも手が届くものとなっているのだ。コンサルティング会社デロイトの予測では、現在75万人の海外治療患者は、二〇一〇年には六〇〇万人に増えるとのことだ。

 なぜこんなことが起きているのだろうか? 一つの理由は、アメリカの医療費高騰だ。アメリカの医療費は常に経済成長以上の上昇を続けてきた。同じ医療を受けるのに、外国で受ければアメリカの一五パーセントですむ。だがいまのブームにはさらに二つの理由がある。一つは、アジアや南米の最高の病院は、どう見ても先進国の普通の病院に匹敵するものになっている。そして第二のもっと不安な点としては、いますでに不完全なアメリカの保険セーフティーネットが崩れかかっているということだ。

 アメリカ人の四五〇〇万人は健康保険に入っていないし、入っていても不十分な人も多い。こうした人々は、国内で自腹で医療を受けるより、外国に行くほうが航空券代まで含めても安上がりかもしれない。また一部の大企業は、自分たちが保険負担する社員たちに、外国での治療を勧めるようにさえなっている。たとえばニューイングランド地方の雑貨店チェーンであるハンナフォードは、多くの治療をシンガポールで受けるよう勧めている。これは本人負担分も三千ドル弱安くなることが多い。この傾向が高まっているため、アメリカ医師会も外国での医療について(驚くほど前向きな)ガイドラインを出している。

 おかげでいままで及び腰だった保険会社も、だんだん「世界医療旅行」を企業向けのオプションに含めるようになってきた。当初は懐疑的だったアメリカの大保険会社エトナは、今年になってシンガポールの病院とパートナーシップを試行している。もともとアメリカの病院からもかなりの割引を得ているので、これが本当にお得になるのは二万ドル以上かかる心臓手術などの治療だけだ。だが、エトナ保険は今後もこの需要が続くと強気の見方をしている。

途上国にも有益な医療旅行

 もちろんこうした動きに対する批判者もいる。こうした動きは発展途上国の医療関係者に貧しい地元住民を見捨てさせ、金持ち外国人ばかりがよい医療を享受することになってしまう、と。確かに世界銀行による最近の報告は、こうした「国内頭脳流出」のおそれを指摘している。

 だがインドやフィリピンなどは、もともと大量に医者や看護婦を輸出していた国であり、患者のほうがやってきて医者が国内にとどまってくれるなら、事態はむしろ好転したことになる。そして医療関係者が不足している国では、むしろその国内の医学教育の改革などで保健制度を改革したほうが望ましい。

 さらにこうした医療旅行が途上国のためになると考えるべき理由も多い。まず、貧困国の国営医療がだめなのは、別に民間病院に医療スタッフを奪われているからではない。それは国営病院などの官僚主義や無能、汚職などによるものであり、貧困のせいですらないのだ――これはコスタリカやマレーシア、そしてキューバですらまともな医療を持っていることからもはっきりわかる。

 また民間病院での医療水準があがれば、それが波及して貧困者の医療も改善する。世界銀行の調査では、トリニダードやインド出身の医師が帰国するようになっているという。地元の病院でいまや世界クラスの設備ややりがいのある仕事ができるようになったからだ。そしてその民間病院が拡大すれば、地元でこれまで受けられなかった医療も提供できるようになるのだ。

途上国医療の躍進と先進国の焦り

 一部の国際病院は、いまやアメリカの病院を飛び越えて第一線の設備を持つようになっている。新築なので、古い建物や設備、政治色の強い組合といったアメリカの病院のお荷物がなくてすむ。タイのブムルングラド病院の人件費は、アメリカでなら総費用の五五パーセントにもなるだろうが、たった一八パーセント。そして同院が運営用の情報システムを導入しようとしたが、既存システムは先進国の古くさい医療経営にしばられ過ぎていて、まったくつかいものにならなかったという。そこで同院は、自分でシステム構築を始めた。完成したものは、欧米のものよりはるかに優れていたので、昨年には同病院の世界医療ソリューションズ部をマイクロソフトが買収したほどだ。

 もちろん、外国での医療がすべての医療問題を解決するわけがない。多くの医療は外国では行えないし、法的な問題や医療過誤の問題も出てくる。だが、こうした動きはアメリカの医療に対する改革圧力を高めてくれることになる。デロイトの試算では、医療旅行のためアメリカの医療業界は二〇一二年には年間一六二〇億ドルの売り上げを逃すことになる。ヨーロッパもこの動きから逃れることはできない。ある試算によると、二〇〇六年にはイギリスからも医療旅行者五万人が外国に出て、トルコ、インド、ハンガリーなどに向かったとのこと。

 すでに欧米の病院では、これに対抗する動きが見られる。一部はコスト引き下げを始めた。そして一部のアメリカの病院は、メキシコの病院を買収して収益を維持しようとしている。もちろん、こうした動きがいいことだけかどうかは、今後の動向を見守る必要がある。だがこれまで安泰だった医療で、一つの台風の目となりそうな動きであることはまちがいない。


 いまや外国の医療は、安かろう悪かろうではない。日本人は、外国で病気になるとすぐに日本に帰そうとする。だが実は地元のほうが優秀な医療を受けられる場合が多々あるのだ。なるほどね。

 もちろん、日本ではこれがすぐに普及することはないだろう。言語というつまらない壁があるので、医者も患者も国内で煮詰まるしかない状況だ。そしてなにやら日本の医療が優秀だという信仰のために、おそらく多くの人々はその状況に何の不満も感じないだろう。医療不信とかなんとか言いつつも、「じゃあ他で受けますので」といえる人は少ない。だがいずれ、だんだんそれも変わるのではないかな。冒頭で紹介した友人のような手口も含め(普及しすぎると保険料が上がるのでほどほどにしてほしいんだが)、できる人はどんどん外国で医療を受けるようになり、それが各種の理由でできない人だけが国内で、あまり安くもないのに悪かろうの医療で我慢するしかなくなる、のかもしれない。読者のみなさん、今後は健康のためにも英語を身につけておいたほうがよいかもしれませんぞ。


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