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Courier Japon, 37
Courier 2007/11,
表紙は自分探し中田

そろそろ現実の話をしようか:世界最高のビジネス誌「The Economistを読む」 連載第6回

自由のためなら人が死んでもいい

(『クーリエジャポン』2007/12号 #38)

山形浩生



  この連載の開始時に、『エコノミスト』がえらいのはかれらにちゃんとした主張があるからだ、と述べた。多くのメディアは、たとえば朝日新聞や『諸君!』などのように明らかに特定の立場がある場合ですら、客観公正中立というポーズを一応は保とうとする。自分の立場や主張をきちんと述べることはない。

 そしてまた、それは当のメディアにとってもよいことなのかもしれない。一部の新聞には「社説」という欄があって、自分たちの立場を一応は表明しようとしている。でもそこに書かれるのは通常はその新聞の中で最もどうしようもない駄文で、まともな理屈もなければろくに勉強した形跡もない、単なる年寄りの変な思いこみが書かれているだけのケースが多い。

 だが、この雑誌はちがう。それを如実に見せつけたのが、次の一文だった。


自由の本当のコスト

 「やつらはわれわれの自由を憎んでいるんだ」とジョージ・ブッシュは二〇〇一年九月のアメリカ攻撃の直後に、議会での演説で述べている。だがアメリカやその他西側民主主義諸国は、この「対テロ戦争」において故国でその大切な自由をどれだけきちんと守ってきただろうか?

 今週から始まる一連の記事でわれわれが示したいのは、自由の旗手を自認する国ですら、過去六年で市民権がどんどん縮小するのをまのあたりにしてきたということだ。恣意的な逮捕、裁判もない無期限の拘束、「引き渡し」、人身保護令状請求権の停止、そして拷問さえある――こんなことがあり得るとはだれが思っただろうか?

 非常事態なんだからそういう手口も仕方ないのだ、と政府は論じる。いまの敵は、物陰にひそみ、とどまることを知らず、化学、生物、核兵器を追い求めている。したがって、古い規則や自由なんかもう時代遅れなのだ、と。それに国際人道法ですら「国内の生命を脅かすような公共的な非常時」においては一部の自由を停止していいと述べているではないか?

 この議論にはかなりの説得力がある。が、残念ながら、こうした議論は昔からずっと説得力があったのだ。有史以来、政府はまさにこの理屈を使って抑圧的な新しい権力を正当化してきた。第二次世界大戦中には、民主国は自国民たちをスパイし、検閲を設けて拷問で情報を引き出した。アメリカは日系アメリカ人たちを収監した――いまでは残酷なまちがいだったと考えられている決定だ。

 アルカイダとの戦いを、第二次大戦や冷戦に匹敵するものと見なす人もいる。でも前者とのアナロジーはまちがっているし、後者の教訓は論者の意図するようなものではない。

 第二次世界大戦のような、熱い全面戦争は何十年も続かないので、国内の自由制限も短期間で終わった。だが、冷戦は終わることがあるかどうかさえだれにもわからなかったので(結局四〇年続いた)、民主国は冷戦を理由に自分たちの作りたい社会を変えるようなことはしない場合が多かった。これは賢明な選択だった。それが何十年にもわたり西側諸国に自由をもたらしたというだけでなく、西側の自由こそが全体主義的な相手に対する闘争のもっとも強力な武器になったからだ。

 対テロ戦争がそもそも戦争であるとしても、それは冷戦に近い――何十年も続くだろう。確かに本当の脅威は存在するが、あらゆる場合に安全保障が自由を蹴倒すのを認めたら、文明社会が何であり、どういう社会になりたいのか、という感覚が崩れてしまうことになる。

 リベラル系が市民権重視を訴えるとき、拷問や人権弾圧などの手口はどのみちテロとの戦いには役に立たないよと主張したがることもある。本誌『エコノミスト』はリベラル系だが、この議論には与しない。秘密警察が市民を偵察し、裁判なしに拘束して拷問で情報を引き出せば、テロ計画を潰しやすくなるということは認めよう。こうした手口を否定するのは、片手を背中に縛られた状態でテロと戦えというに等しい。だがまさにそれこそ――つまり片手を背に縛られた状態こそ――民主国がテロと戦うべきやり方なのだ。

 たとえば拷問はどうだろう。有名な思考実験として、間もなく爆発する核爆弾のありかを知っているテロリストを前にしたらあなたはどうするか、というものがある。論理的には、その一人を拷問しても何十万人もの命を救うほうがいいので、拷問することになる。だがこのジレンマは作り物でしかない。現実の世界では、警官は容疑者たちが、何か計画について知っているか、その計画に何人の命がかかっているかも確信はまったくないことが多い。はっきりしているのは、この時限爆弾の論理はすぐに濫用され、気がつくと公共の福祉の名目で国があらゆる市民の苦労して勝ち取った権利を蹂躙するようになるということだ。

 文明世界に生きるということの一部は、人権が持てるということだ。テロリスト容疑者――ついでに殺人候補者や強姦予備軍や潜在的児童性愛者たちも――を、実際に犯罪をおかす前に投獄すれば、たぶん社会はもっと安全になるだろう。現在、テロと戦うという名目で使われているぞっとするような手口を使えば、何十というテロ計画が阻止され、何千もの人命が救われるだろう。そうした手口を捨てて自由を守ろうとすれば、多くの人命が犠牲になるかもしれない。だがそれがどうした (So be it)。


 ぼくはこの記事を読んで本当に涙が出た。最後の So be it という表現の、ほとんど居直るような決然とした雰囲気は、ぼくですら十分に訳しきれない。念のため屋上屋を承知で説明しておこう。この論説は、自由のためであれば人がテロで死んでもかまわない、と平気で言い放っている。大量テロが起ころうとも、人の自由を犠牲にしてはならないのだ、と明確に述べている。この世には、人命より尊いものがある、と。

 通常ならここまではとても踏み込まない。もっと逃げ道を探す。「一方的な人権縮小ではなく、適正なバランスを見つけなくてはならない」という逃げ方がいちばん簡単だろう。そしてここで指摘されているような「人権を抑圧してもテロ捜査には役に立たない」といった効用的な逃げもある。が、この論説はその逃げ道すら自ら断つ。有効でないからダメだというなら、有効だったら人権を無視していいということになるからだ。拷問や各種の権利制限は、確かにテロ防止に役立つだろう。でもそれであっても、そっちに向かってはならない。自由はテロ防止よりだいじなのだ、と。

 日本で――いや世界でも――ここまでの断言ができるメディアはない。メディアはおろか、個人としての評論家であれ思想家であれ、ここまでの断言ができる人は(よほどの変人でもない限り)いない。できても、敢えてしようという人はいないだろう。この論説は、たぶんジャック・バウアー的タカ派からも、自由重視のリベラルからも批判されるに決まっているからだ(実際、投書欄でそうなっている)。そして何より、ある理想のためなら人が死んでもかまわない――これはここでの「敵」として挙がっているテロリストの発想そのものでもあるからだ。

 ぼくは権利をここまで信じ切ってはいない。本当に人命が助かるなら、人権を制限すべきだと思っている。が、それをいまここで明言できるのは、この論説のおかげだ。この論説を読んで初めてこのトレードオフを正面切って考えざるをえなくなり、漠然とは思っていたことを具体的に考えざるをえなくなった。意見のちがう相手(たとえばぼく)にすら、思考と決断をうながす――これぞまさに本来の論説が果たすべき機能だろう。だがそれを果たし得ているものがいかに少ないことか。で、あなたはこれを読んでどう思っただろうか。あなたは何千人の命を前に「それがどうした」と言えるだろうか?


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