小野善康さん、それってちょっと……

Valid HTML 4.0! 山形浩生

 はーい。ようこそ。この文章は、山形の小野善康への批判に対して、小野善康が自ら稲葉掲示板に書き込んだ内容に対する、再反論、というわけではないな。論点の再整理みたいなものをやっているところでーす。小野さんはその中で、『景気と経済政策』を読み直せ、と言ったので、まああの本が見つからずに「経済政策の正しい考え方」のほうをざっと読んでみたんだけれど、やはり持っていた疑問はまったく消えなかったし、どうも小野善康の議論はずるいんじゃないか、という気さえしてきたので、それをまとめてみた。だから内容的にはほとんど変わっていないので、アレだけれど。これまで何度も、ご多忙のところわざわざ返事をくれた小野善康教授には感謝します。

 なおこれまでの経緯がわからない人のために、これがここまでの経緯なのである。


1. 小野善康の論理構造

 というわけでまず、小野善康の景気回復論は、二部構成になっています。

  1. 失業があるのは無駄。だからなにもしないよりは無駄でも公共投資をばんばんして、そいつらを使ってなんかしらさせよう。
  2. でも現在の俗流ケインズ的なばらまき公共投資は無駄だからダメ。だから需要をつくる役に立つ公共投資をしよう。

 まず (1)は、みんなの考えている景気対策ではありません。みんな、俗流ケインズ式公共投資がまともな景気対策だと考えることに、いつの間にかなれてしまっています。でも、そうではないのは小野さんも幾度も指摘なさっているとおりだし、クルーグマンが「十字の時:公共投資で日本は救えるか」でも述べているとおり。不自然な公共投資の前倒しなしでも、ちゃんと需給がマッチして完全雇用に近いものが達成されるにはどうしたらいいか、というのがみんなの考える景気対策ですね。したがって、(1) が景気対策として成立するには、(2) が必須です。

しかし一方では、(1) と (2) は、よく考えると矛盾しています。(1) では、失業者を遊ばせておくくらいなら、無駄でもいいから公共投資をしろと言う。しかし(2) では、無駄な公共投資はダメだという。どっちなんでしょうか。これについてはまた後で。

 しかし、この矛盾をぼかして議論を進めることで、小野善康の「経済政策」論は展開されています。そしてこれをぼかすことで、この両者を単発でも繰り出せるし組み合わせても繰り出せるというかなりアクロバチックな議論展開が可能になっているわけです。

 その様子を、まず(なぜか)二番目のものものから見ていきましょうか。

2. 「よい」公共投資とは言うけれど……

 いまのばらまき公共投資がダメで、役にたつ公共投資が必要、と小野善康はいいます。が、その具体的な中身はまったくありません。「需要をつくる公共投資を」というだけです。それはなに? 具体的にどのようにもたらされるの? これに対する小野善康の答えは、最終的には「わかんない」です。「それを考えるのは経済学者の仕事じゃない」ということです。役人がもっといいアイデアをだせばいい、民間がもっといい提案をすればいい、それは現場の仕事だからオレは知らない、ということになります。

 これに対する当然の反論は、いまの役人のやってることを見て、かれらがこれから急に「いい」公共投資のアイデアを出すなんてどうして思えるの? ということです。民間が公共に対して提案しろと言うなら、どうして民間が自分のアイデアを自分で実施するだけではダメなの? ということです。現に、小野善康がしょっちゅう挙げる「需要をつくりだした」事例の携帯電話は、民間の民間による投資です。それを(減税でもなんでも)支援したほうがいいじゃないですか。

 さて、これに対して小野善康は次のように論じます。そんなに役人が信用できないなら、そもそも政府なんかなくしちゃえ、経済政策なんか無意味ということになってしまうではないか。さらに民間がだめだからこんな不況になってるんだし、民間なんか信用できない、連中はためこむだけだ。

 前半については、まずあんまり極論をしないでくださいな、というだけです。政府をなくされたらぼくも仕事がなくなって困ります。単に景気回復策という場面で、小野善康式の「なんか良いアイデアだしてよ」式の無条件な信頼はできない、ということです。
 さらに後半については、携帯電話についてだけ民間は信用できて、ほかのところは急に信用できないというのはどういうわけだろう、と思うのが人情でしょう。さらに、なにをしようともいずれ民間の設備投資とかが回復しなきゃ景気は戻らない。公共投資を経由しようとも、減税を経由しようとも、いずれは民間に頼るしかないんですよ。

 もちろん、実際に「宇宙開発をやりなさい」とかいうプロジェクト提案を期待しているわけではありません。しかしながら、単に「アイデアを出せ出せ」というだけではダメでしょう。しかじかの理由で公共のほうがアイデアを出せるはずだ、というのを過去の実績なりアイデア生成リソース(ってなんでしょうね)の分布なりで示さないと。そしてその上で、「だからこいつらにもっとリソースをまわそう、そうしたらアイデアもでるであらふ」という議論をしないと。

 つまりアイデアを出せというなら(役人に対してであれ民間に対してであれ)、アイデアを出しやすくする仕掛けというのが必須ですが、それについて小野善康はなにも述べていません。これについても特に案はないということでよろしいですね。

 もちろん、山形としても、どういうアイデアで景気が回復するのかはわかりません(が、ぼくの立場については後述)。ただここで大事なのは、民間が信用できようとできまいと、小野さんがぼくの揚げ足取りについてなにを言おうとも、小野さんとしては需要を創造する投資がどんなものであるかについてはまったく見当がついていないし、さらには、そういうアイデアを(民間側でも公共側でも)出やすくするためのインセンティブや方策づくりについても、まったく無策である、ということです。

 つまり上の (2) の議論は、政策的には実在しないのです。(2) は政策提案ではなく、「みんながんばろう」式のかけ声でしかありません。

 さて、問題は次です。こういう話で分が悪くなると、小野さんは (1) に逃げます。これが次です。

3. なにもしないよりまし……?

「そんなことを言ったって、失業者といういちばん無駄なところに人がたくさんいるんだから、かれらを遊ばせておくよりも、無駄でも何かさせたほうがいいじゃないか」

はいはい、わかります。つまりこれは、とにかく失業者に雇用機会ができて、まったく無駄なものであれなんかしらできるんだから、とにかく公共投資しなさい、という話です。「なにもしないよりはまし」ですね。

 でもこの議論はつまり、小野さんがご自分でさんざん批判している、通俗ケインジアンの議論と寸分変わりません。とにかく需要が足りないんだから、とにかく公共投資で需給ギャップを埋めろ、なにもしないよりは何かしたほうがいい、という議論です。でも、小野さんは(2) の話をするときには、「いまのようなばらまき型公共投資はダメだ」と何度も言うのですね。どっちなんでしょうか。

 ぼくから見ると、小野さんは「いまのばらまき型公共投資も評価できるし、評価すべきだ、これからやる公共投資がすべて乗数効果のない無駄なやつになっても、それはそれでかまわないのだ」というのをはっきりおっしゃらない限り、理論的な一貫性をもてないような気がするのです。が、お書きになっているものを読むと、それはたぶん言うわけにはいかないのかもしれませんが。

 失業保険を出すのと、失業者を使ってゴミ処理場をつくるのとどっちがいいか? これも小野さんのよく使う論法です。小野さんはゴミ処理場が圧倒的に「明白に」いいとお考えのようですね。

 つまりこれは、(2) をやれ、というのを弱い形で言い換えただけです。携帯電話みたいな需要をばんばん作るものではないにしても、 (2) は明白にできるんだ、素人判断でもわかる無駄でない投資はたくさんあるぞ、という主張です。

 がぁ、これはコスト便益分析して考えてみないとはっきり言えないんじゃないでしょうか。ゴミ処理とかダイオキシン処理とか、いかにも聞こえのいいものをあげて、湾岸戦争支援とか悪そうなものをスケープゴートにすることで、公共にできる明らかによいことがいくらもある、という印象を小野さんは作り上げます。でも、本当にそうなんでしょうか。もしそうなら、なぜこれだけ公共工事が前倒しされる中で、そうしたものに手がつかないんでしょう。

 可能性は三通り。

  1. 役人は、新しいアイデアを思いつくどころか、目の前にある素人でもわかるすぐれた投資機会をみすみす逃してしまうほど無能だ。
  2. 役人としてもすぐれたプロジェクトはわかっていて、それを実施したいのはやまやまなのに、政府内の組織硬直のためにそれが実現できない(でもこれは上のと大差ない話ですね。結局役人には期待できない、という話です)。
  3. 実はこういうプロジェクトは見た目ほどはよくない。

 どれが正しいかは、諸般の事情でノーコメントですが、いずれにしても小野さんの議論は成立しないのは明かでしょう。

 そしてそう言われると、小野さんは「いや、個別プロジェクトはおれは知らん、問題はそういうことじゃなくて、需要創造につながるような投資をしろということだ!」と逃げます。(2) ですね。が、それについてはすでに前段で、小野さんに具体的な策がないことは見たとおり。この逃げ道は、小野善康の政策議論としては実在しません。

 そしてその「需要創造」の具体案がない以上、小野さんの議論は要するに、先の見えないまま、失業対策の多額の(おそらくは無駄な)公共投資をいつまでも続けなさい、というだけです。これが減税して民間にため込ませるのとなんら変わりないのは、小野さん自身が何度もご指摘のとおり。でも、小野さんの政策的な貢献は、それを正当化することでしかないのです。

4. じゃあ山形、おまえはどうなのよ。

 さて、じゃあえらそうなこと言ってる山形はどうなのよ、ということなんですが、はい、ぼくは実はどっちでもいいのです。公共に金やるからアイデア出してよ、という話になったら、そのアイデアの弾出しの仕事がかなりぼくの勤め先に落ちてきます。減税だと、まあちったぁ金が戻ってくるでしょう(それに、リストラの噂も多少は軽減されるかも……)というわけで、どっちに転んでもあんまり実害はないんです。

 がぁ、どっちかと言われれば後者のほうがいいなぁ、とは思います。いまだって役人は、ない知恵しぼってるんだし、われわれだってその下請けでかなりしぼられているのです。もっと良い案考えろということは、すでに過労の役人を、さらに苦境に追いやるだけです。そしてそのしわよせは、かなりぼくんとこにも波及したりするのです。たとえば、アイデアを出すだけでなく、役人の考えた、あまりよいとは思えないばらまき公共投資のアイデアをよく見せるために、いろいろ余計な検討をさせられたり。
 ああそうだ、ちなみに「需要創造型の公共投資」というせりふは、どうたたいても需要見込みや波及効果が出てこないようなだめなプロジェクトを是が非でも正当化しなくてはならないときの、コンサルどもの最後の必殺奥義です。徹夜のあげくに、最後の瞬間に良心のうずきを眠気で押さえ込みつつ、この一言を報告書に涙を流しつつ書いたことが多々ありました。苦い涙と敗北感の切ない味わいを持つ一言なのです。ぼくが小野さんの議論に反発したくなるのは、それが根底にあるのかもしれませんね。が、閑話休題。

 まあ毎日真夜中近くまで働かされたうえに土日もほとんど休日出勤で、しかもおまけに翻訳や雑文書きいろいろというぼくの状況など、大学の独立行政法人化や新著の準備でてんてこまいの小野善康の働きぶりに比べれば、笑止千万の甘いものでしかないんでしょうけれど、個人的にはこれ以上働かされるのはかんべん、という感じなのです。

 ちょっとまった、天下国家の政策議論をしているときに、テメーのちんけな職場で、テメーのセコい労働条件をもとにあれこれ言うのはずるいじゃねーか、というのは事実です。が、民間はそういうものです(経団連の議論をごらんなさい)。それに、現実的な議論だと思います。ずるい。ずるいんですが、でもぼくがいかにずるい立場に立っていようとも、小野さんの議論の不十分さがいささかも軽減されるわけではない点にご留意ください。

 さらに、ぼくはクルーグマンを趣味で訳したりしているので、あのインフレ期待の議論が好きなのです。実は公共投資や減税なんかどうでもいいから、あれをやってくれないかなと思っているのです。うまくいこうが失敗しようが、とてもおもしろい実験になるでしょう。

5. そもそも経済政策とはどんなものか。

 結局ぼくの批判のいちばん大きな部分は、小野さんの議論が経済政策としての提案なり処方箋なりとしては、まったく不十分どころか現状肯定としてしか機能しない、ということです。したがって、経済政策の議論としても無意味だ、ということです。
 それに対して小野善康はなんと「経済学者は不景気の原因を分析するのが仕事であって、その処方箋を考えるのは経済学者の仕事じゃない、それは技術屋がやれ」とおっしゃいました。
 これはぼくが今回、きわめてがっかりしたところです。

 プロジェクトを考えるのは、技術者の仕事だ、と小野さんはおっしゃる。そうでしょうか。技術者は「これは需要を生み出すだろうか」なんてことは考えないし、考えられません。「この発電所は稼働率がこんくらいで、これこれの電力を供給するようつくろう」と思うのは技術者です。が、その発電所がそもそも必要で、それがあることで国民の生活水準があがるな、波及効果があるな、(あるいは収益があがるな、儲かるな)と判断するのは技術者ではありませんよね。それは役人なり、あるいはビジネスマンなりやることです。そしてそのときかれらは、おそらくは経済学者(あるはぼくみたいな、できの悪いモドキ)の手を借りることでしょう。したがって、それは立派に経済学者の仕事でもあるとぼくは思います。

 さらに、個別プロジェクトが需要創造につながるかどうかなんて、おいそれとはわからん、というのを、ぼくは何度も言ったつもりです。でも同じわからんにしても、まだしも収益に敏感な民間のほうがいいかも、というのは、インフラの民活整備への流れを見ても、まあ世界的な共通認識としてあるんじゃないでしょうか。それが派手なしっぺがえしをアジアの各地でくらっているのは(もちろん)知っていますけれど。
 ところがそれに対し、民間ではダメだ、公共ならそれができるというのが、小野さんの議論の根幹ではないですか。経済政策を云々するなら、そして世間に対して「こうしよう!」と経済学者として発言するなら、その根幹部分について、ヒントなりが要ります。いまはそれがまったくないんです。「それを考えるのは経済学者の仕事じゃない」では通りません。

 不況の原因の議論については、非常に参考になります。バブルが破裂して、資産価値が下がってみんな気分が貧乏になって、だからお金を使わなくなりました。それで不景気です。はい。それはわかりました。それについては小野さんは 100% 自信がおありとのことですし、ぼくもそれについては特に反論はありません。それなりに納得のいく議論です。

 でも、小野さんは経済政策を云々しようとしている。経済政策を語るおつもりなら、この分析が、正しいにしてもほとんど使い物にならないということにはお気づきでしょう。この分析から出てくる回答は、「じゃあ景気回復のためにはみんなを金持ち気分にさせましょう」というだけです。あるいは「資産価値をもう一回あげよう」というだけです。でも、そんな話ならガッツ石松ですらできます。「バブルが破裂したんなら、もう一回ふくらませばいいのです」というのはかれの名言です。いずれも話は「どうやって?」です。そして政策を云々するというのは、その「どうやって?」を考えるということです。それを放棄したなら、それは政策議論にはなりません。

 インフレ期待をつくりましょう、というのは、政策提案です。増税アナウンスしましょう、というのも政策です。PFIのようなスキームで、民間のアイデアをインフラ投資に活用しましょう、というのも政策です。減税しましょう、というのも政策です。国民に消費ノルマを課して、ためこんでるヤツをお互いに密告しあってラオガイ送りにするシステムをつくろう、というのも政策です。

 でも、みんなでいいアイデアを出しましょう、というのは政策でもなんでもありません。「それじゃダメだと言っている」でもダメなのです。なにがいいのか、だれが、なにをするべきかを、おおまかな枠組みでもいいから提示しないと。

 それを考えるのは経済学者の仕事ではない、というなら、それはそれでいいでしょう。ただ、それは最終的に、自分は無策だと言っているに等しいことだけは認識していただきたいと思います。それが象牙の塔への撤退宣言だということも。『経済政策の正しい考え方』の最後の文章(あれはひどい代物だと思います。小野さんが書いたんじゃないですけど、でも編者としてはなにを考えてあんなゆるい雑文を載せたのでしょうか。まあいいけど)で、経済学者やなんかが経済政策について議論をする場がない、だから経済学者が政策的な影響力を持てない、だれかそういう場を作ってくれ、という実に他力本願の見苦しい泣き言が出ていました。でも、政策的な影響力を持つためには、政策的に実行できる提案が必要でしょう。それができずに、それは他人の仕事だというなら、(そして小野善康級の、日本の若手ホープがそのような発言をするなら)日本の経済学者は永久に経済政策にタッチできないでしょう。それはあまりにもったいないことではないかと思うのですが。

6. で、小野善康は、ぼくの批判に答えているか?

 というわけで小野善康はぼくの批判にすでに答えているでしょうか? 答えは、ミクロではYesだけれど、マクロにはNoでしょう。小野さんは、(1)の議論の話をしていると(2)に逃げ、(2)の話をしていると(1) に逃げます。個別の議論では、それなりに答えているようですが、全体としては答えていません。そして政策議論としては、先の見通しがないままばらまき型の公共投資をいつまでも続けろと言う、俗流ケインジアンの議論を(一方で批判しつつ)無制限に肯定しているだけです。小野善康として理論的にどう考えていようとも、いまの理屈は現実にはそういうふうにしか機能しないのです。

これは批判でもありますが、同時に自戒でもあり、自己批判でもあります。土地について、ぼくもまったく類似の議論をすることがよくあります。地価が下がっているのに対し、「保有税減税なんかではダメだ、もっと利用価値を生み出すような開発をしないと」というような議論です。それがどういう開発なのか、ぼくにはわからない。
 ただしその一方で、そこで用途地域の緩和をしたら(あるいは厳しくしたら)、とか開発申請を簡略化したら、とか、アイデアを出しやすくする政策提案はできます(します。きいてもらえないけど)。それが政策としてうまくいくか、というのは次の議論です。が、小野さんのいまの議論は、それ以前の段階でしかありません。

 タイヤに穴が開いているときに、それが釘で開いたのか画鋲で開いたのか、というのは、推理ゲームとしては楽しくても政策的には無意味です。そこでパッチをあててパンクを修理すべきか、それとも空気を入れ足しながら、だましだまししばらく乗るべきか、というのは政策議論です。小野さんは、いつまでも釘か画鋲かを考え続けるおつもりなのでしょうか。それも経済学者の仕事ではあるだろうけれど、うーん、ぼくは小野さんくらいの方にはもう少し積極的な役割を期待したいんだけれど、まあそれもぼくの勝手な期待で本人がそんなのやだと言うんならそれは仕方ないし、もったいないと思うけど、まあそれはそれでしょうがないのかもしれないし世の中そうそう期待どおりに動くもんじゃないのは知ってるけれど、まあいいや。

 あと、細かい話。湾岸戦争や北朝鮮支援はできて、小野流の公共投資はなぜできない、というのが小野さんのよく使うレトリックですが、これはレトリック以上のものではありません。小野流の公共投資ってのがなんなのか、そもそも小野さんは提示できていない以上、これは比較にならないし、さらに湾岸戦争支援や北朝鮮支援は、別に景気対策でやっているのではなく、ほかの利害の計算があってのことだ、というくらい小野さんだってわかっているはずです。両者は比較できないのです。

参考までに、山形による小野&吉川『経済政策の正しい考え方』(東洋経済)書評。内容的には、ここに書いたことと反復が多い。

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