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ケインズ『雇用と利子とお金の一般理論』要約、7 章
山形浩生 (全訳はこちら)
7 章 貯蓄、投資の意味をもっと考える
Abstract
- 貯蓄と投資が必ず等しくなるという議論に違和感を覚える人もいるだろう。
- 両者が一致しないという議論をする人もいるが、それは通常、投資とか所得という用語の定義がちがうせいだ。
- そしてその違和感は、ミクロの議論とマクロの議論をごっちゃにするために生じる。一人が自分だけ自由に貯蓄を増やしても、その人の投資は変わらないことはある。でも社会全体で見ると、これはあり得ない。実はその個人の「自由」も、他の要因を通じていろいろ制約されていて、社会全体では絶対に貯蓄と投資は一致する。
本文
Section I
- 1. 前章の定義で、貯蓄と投資が社会全体では必ず等しくなり、両者が同じものを別の角度から見ているだけだということになった。でもこれが必ずしも成り立たない定義を使っている人もいる(それ以前に勝手な思いこみでものを言っている人もいる)。そういうのをふりかえってみよう。
- 2. 貯蓄というのが、所得から消費分を引いたものだ、という点はさすがにみんな合意するようだ。消費というのもみんな合意している。すると問題は、所得の定義と投資の定義にあるわけだ。
Section II
- 3. まずは投資から。普通、投資といったら人や会社が資産を買うことだ。株を買うことだけを投資と呼ぶこともある。でも家を買うことを投資と呼んだり、機械を買ったり各種の品物を買うのを投資ということもある。でも投資を売却したらマイナスの投資になることを認めたら、この用法とここでの定義とは同じになる。
- 4. この定義だと投資は、資本設備(固定資本、運転資金、流動資本)の増分だ。いろんな定義の差は、この中のどれを含めるかで生じる。
- 5. ホートレーは、流動資本の変化をえらく重視する。つまり売れ残り在庫の増減がかれの主眼だ。だからホートレーは、投資からその部分は抜こうと主張する。この場合、貯蓄が投資を上回るというのは、売れ残り在庫が予想外に増えたということになる。でも、なぜそこだけ重視するのかわからん。在庫は意志決定の材料として重要だが、他の要因だって重要だ。
- 6. あとオーストリア学派の資本形成とか資本消費というのは、なんかここで定義した投資やマイナスの投資とはちがうらしい。特に資本消費というのは、明らかに上で定義したような資本設備の減少が起きないときでも生じるみたいだ。でも、これをきちんと定義しているものがまるっきり見あたらなくて意味不明すぎ。
Section III
- 7. 次に、所得の定義が特殊なために貯蓄と投資が食い違っている例を見よう。これは拙著『貨幣論』が事例だ。あそこでの「所得」というのは実際の所得ではなく、いわばかれらの「通常の利益」を指していた。だから貯蓄が投資より多いというのは、資本の収益率が通常より低いという意味になっていた。
- 8. あそこで言おうとしていたことはまちがってはいない。本書での議論もあれの発展形だと思っている。でもいま考えると、当時の理屈は不完全でわかりにくかった。
- 9. D.H.ロバートソンは、今日の所得を「前期の消費+投資」と定義している。これだと、貯蓄が投資を上回るというのは、ケインズ式の所得が低下するというのとまったく同じことだ。
Section IV
- 10. さて、「強制貯蓄」という変な概念を使う人がいる。ハイエクとかロビンスがこの用語を使うけれど、ちゃんと定義しないし、どうもお金の量や銀行与信の量で計測するもののようだ。
- 11. お金の量が変わると確かに貯蓄量も変化するかもしれない。でも別にそれは「強制」されたわけじゃない。貯蓄を見てもそれが区別できるわけでもない。それにお金の量が同じでも貯蓄は他の条件に大きく左右される。
- 12. 標準的な貯蓄を定義しないと「強制貯蓄」なんていう概念は無意味だ。完全雇用のもとでの貯蓄量を標準とすることはできる。でもそれだと「強制貯蓄」なんてのはほとんどなくなるし、むしろ貯蓄不足のほうが起きやすくなる。
- 13. 強制貯蓄を扱ったハイエクの論文を見ると、まさにこれがもともとの意味だったらしい。これはもともとベンサムが考えたもので、完全雇用下では意味がある。でもそれを不完全雇用に適用すると、使い物にならない。
V
- 14. 貯蓄と投資が等しくならないという発想が広まっているのは、預金者と銀行の関係についての幻想からきている。預金するとそのお金がいつの間にか銀行システムに吸い込まれて投資に使われてなくなるような印象がある。でもあらゆる取引は双方向なので、一方的に吸い込まれるようなことはない。
- 15. 銀行の信用創造だって、ちゃんと預金の裏付けがあってできることだ。
- 16. 投資のない貯蓄はないし、貯蓄なしに勝手にお金がうまれて投資されることもない。ときどき誤解されるのは、一人が貯金したらその分だけまったく同時に投資が増えるという誤解だ。でも場合によってはある人が貯金を増やすとその分他の人が貯金を減らしたりすることもあるので、個人の個別投資と総貯蓄はいっしょにしないこと。
- 17. 投資の量は人の自由意志で決まるという発想は、社会全体では合成の誤謬となる。全員が同時に貯蓄を殖やすことはできないのです。
- 18. これはみんなの手持ちのお金の量でもいえる。個々人は手持ちのお金を自由に増減できるとはいえ、社会全体のお金は、金融システムが作り出したお金の量に制限される。「自由に増減」といっても、その自由は所得とか物価に実は左右されているのだ。
- 19. 要するにあらゆる場合に、売り手と買い手が両方そろわないと取引は成立しない。個人は小さいので、それを考えなくても取引は考えられるけれど、社会/経済全体を議論するなら、それは無視できない。ミクロの議論とマクロの議論がちがうことをきちんと認識しないと足をすくわれる。個人は社会にほとんど影響を与えずに自分の所得を増やせる。でも社会全体の所得を増やすというのは話がちがうんだから。
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YAMAGATA Hiroo日本語トップ
2011.10.10 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)
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