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ケインズ『雇用と利子とお金の一般理論』要約、3 章
山形浩生 (全訳はこちら)
3 章 有効需要の原理
Abstract
- 雇用 \(N\) は、社会の総消費と総投資の合計、つまり有効需要によって決まる。
- じゃあ総消費はどう決まる? それは雇われた人たちがどんだけ消費するかで決まる。そしてその消費は、その人たちの稼ぎで決まる。所得が増えるとみんな消費を増やすから。でも、増えた分を全部消費にまわす人はいない(ふつう貯金とかするでしょ)。どのくらいを消費にまわすか、というのが消費性向というやつだ。
- このままだと事業者は、払った賃金(つまり所得)より低い売り上げ(消費額)しか手に入らないので、人をそんなに雇えない。それがわかってるから、かれらはもともと見込める売り上げ(消費額)程度の人しか雇わない。すると完全雇用でないところで均衡する。つまり自発的でない失業が起きる。
- これを防ぐには、社会の投資を増やすことだ。投資を増やせば、その分有効需要も増える。そのためには、投資の見返りが(貯蓄の利息より)高くないとダメだ。
- でも経済が豊かになると、稼ぎを全部消費にまわさなくてもいい(消費性向が下がる)し、また社会のインフラも整備済だから投資機会も減る。完全雇用が実現するまで有効需要を高めるためには、人工的に投資機会を増やす、つまり利子率をどんどん下げることで投資を確保しなきゃいけない。
- だから、有効需要と、投資の限界効率と、利子率についてきちんとした理論を考えないと経済の一般理論にならん。それをこれからやる。
- 古典派の理論は、現実離れしていて、実用性も皆無。自由放任の現状追認なので気に入られただけかも。それと、古典派理論だとこの世はあるがままでサイコー、という幻想に浸ってられて気分がいいのかも。でもそれは現実の問題から目を背けることだよ。
本文
Section I
- 1. 技術水準やリソースや費用が一定なら、ある量の労働を雇うことで企業家には二種類のコストが発生する。まずは生産要素を買うのに必要なコスト(要素費用)。もう一つは、他の完成品を買ってきてそれを動かし続けるために必要な費用(利用者費用)だ。(注:わかりにくいんだけど、まあ前者は変動費、後者は減価償却費と考えるとわかりやすいか。厳密にはちがうんだが)。
- 2. で、技術とリソースと労働+原材料費の水準が同じなら、産業は (売り上げ-要素費用) を最大化するようにリソースを雇う(訳注:利益を最大化するように、というのと同じことですな)。
- 3. じゃあ、\(N\) 人を雇うと総供給価格が \(Z\) になるとしよう。これを \(Z = \phi (N)\) と書く。これが総供給関数だ。次に \(N\) 人雇ったときに期待できる売り上げを \(D\) としよう。これを\(D=f(N)\) と書く。これが総需要関数だ。
- 4. でもって、\(D \gt Z\) なら、企業家はもっと人を雇って、\(D = Z\) になるまで \(N\) を増やす。この時点で利益は最大化する。だから雇用の量は、総需要関数と総供給関数が交差する点で与えられる。その交点での \(D\) の値が「有効需要」なんめり。
- 5. 一方、古典派の主張は「供給はそれ自体の需要を作り出す」というものだ。これはこの二つの関数が \(N\) の値によらず等しい (つまり \(D=Z\)、と想定している)。
- 6. もしこれが成り立つなら、事業家同士の競争は常に拡大して、全体としての産出の供給が非弾性的になるまで進む。つまり有効需要がいくら増えても産出がそれに応じて増えなくなる点、つまりは完全雇用が実現されるまで続く、ということだ。でももしこれが正しくなければ、古典理論は大きな見落としをしている。
Section II
- 7. これから説明する理論の概略を述べておこう。
- 8. 雇用が増えると、社会としての総所得が増える。すると総消費も増えるけれど、その増え方はショット五億ほどじゃない。だから、その差額は総投資が増えることで埋め合わされる必要がある(そうでないと社会の中での総需要が足りなくて、事業家は雇用を正当化できない)。だから、社会としての消費性向が一定なら、雇用の総量は現在の投資の大小に左右される。現在の投資の大小は、投資の誘因(後で説明)で決まってくる。そして投資の誘因は、資本の効率と金利で決まる。
- 9. 消費性向が一定で、新規投資も一定なら、均衡水準をもたらす雇用は一つしかない。この水準は完全雇用より低い可能性がある。古典理論は、それが完全雇用と一致する場合しか扱わないけど、これはかなり特殊な場合だ。
- 10. まとめるとこういうこと:
(1) 他の条件が一定なら、所得(実質も名目も)は雇用量 \(N\) に依存する。
(2) 社会の総所得と、総消費 (\(D_1\)) の関係は、社会の消費性向という心理状態で決まる。総消費は、総所得の水準で決まり、総所得は \(N\) によるから総消費も \(N\) で決まる。
(3) \(N\) は、事業者がどれだけ雇おうとするかによる。これは社会の総消費 (\(D_1\)) と社会の総投資 (\(D_2\)) の合計 (\(D\)) となる。\(D\) が有効需要ってやつね。
(4) \(D_1+D_2=D=\phi(N)\) となる。で、 (2) から、\(D_1=\chi(N)\) なので、\(\phi(N)-\chi(N)=D_2\) になる。
(5) つまり雇用量 \(N\) は、総供給関数 (\(\phi\)), 消費性向 (\(\chi\)), 総投資 (\(D_2\)) で決まる。ここが『一般理論』のキモだぞ。
(6) \(N\) が増えるとだんだん限界労働生産性(最後に雇われた人の生産性。事業者は賢いので、優秀な順、つまり生産性の高い順に人を雇うのだ)は下がる。この限界生産性が実質賃金水準を決める。そしてあまりに賃金が低ければ、だれも働きたがらないから \(D\) を増やしても \(N\) が増えない可能性はある。が、ここでは無視。
(7) 古典理論だと、すべての \(N\) に対して \(D=\phi(N)\) が暗黙の前提だ。
(8) \(N\) が増えると、\(D_1\) は増えるけれど、\(D\) ほどは増えない。所得が増えると消費も増えるけれど、でも一部は貯蓄にまわるから、所得の増分ほど消費は増えないのと同じこと。雇用が増えるほど、消費者の消費額 (\(D_1\)) と総供給価格 (\(Z\)) とのギャップは大きくなる。だから雇用も増やせない。だから(\(D_2\) のほうで何か起きない限り) \(N\) は完全雇用より下にとどまる。つまり、失業がある状態で経済が均衡する。
- 11. ここでの失業は、「働くのはつらいのでこの賃金水準では働かないぞ」という自発的なものじゃないことに注意。
- 12. 社会が豊かなのに貧乏人が残っていることも、これで説明できる。有効需要が不足して、労働の限界生産性が十分に高くても完全雇用が達成されていないからだ。
- 13. さらに社会が豊かなほど、潜在的な生産能力と実際の生産のギャップはでかい。貧乏なコミュニティは、作ったモノや稼ぎはすぐに使うしかない。だから社会の総投資 (\(D_2\)) が少しでもあればすぐに完全雇用になる。でも豊かな社会だと、右から左に稼ぎを使い果たす必要がないもの (つまり消費性向が低い)。それを埋め合わせるには、\(D_2\) は相当必要だ。
- 14. もっと困ったこと。豊かな社会は、消費性向が低いだけじゃない。すでに資本が十分に蓄積されてしまって(つまりインフラや設備が十分に整っているので)、十分な見返りの期待できる投資先がなかなか見つからない。社会の総投資 (\(D_2\)) を増やすには、金利を下げて「十分な見返り」のハードルをどんどん下げるしかない。でもこれは自動的には生じない。この点は第IV巻で解説。
- 15. まとめると、既存の理論で不足しているのは、消費性向の分析、資本の限界効率の定義、利率の理論だ。これさえ決まれば、価格理論も決まってくる。さらに、利率の理論を考えるときにはお金というのが重要になってくるので、これについても検討する。
Section III
- 16. 総需要関数なんか無視していい、というのはリカード式経済学の教えだ。マルサスは、総需要が不足するかも、と述べたけれど、理論にまとめられなかった。だから総需要の謎はその後だれもとりあげず、マルクスやゲゼルやダグラスが触れているだけだ。
- 17. なぜリカードの発想がここまで普及したかはよくわからん。現実に適用すると常識はずれな結論が出てくるので、「おれは馬鹿な世間にはわからんことがわかる」という虚栄心を満足させられるから、かもしれない。さらに、自由放任を主張することで、既存事業者に都合がよかったこともあるのかも。
- 18. でも、普及はしたけれど、リカード派の理論は全然現実の役に立たないことがだんだんわかってきた。それなのに当の経済学者たちは平然としている。
- 19. それと、古典派の描く世界は、ほっとけば世界は完璧、という人々の願望を正当化してくれるものだった、というのもあるのかもね。でも、それは現実の問題から目を背けているだけだ。
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YAMAGATA Hiroo日本語トップ
2011.10.10 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)
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