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ケインズ『雇用と利子とお金の一般理論』要約、2 章
山形浩生 (全訳はこちら)
2 章 古典派経済学の想定
Abstract
- 古典派の理論では、失業は労働組合が不合理に高い実質賃金を要求し、自発的に失業を選ぶから起きる。非自発的な失業なんてものはないはず。
- でもこの議論は変だ。労組は実質賃金なんか気にしない。労使交渉は名目の賃金をめぐるものだし、インフレになって実質賃金が相対的に下がっても、それで仕事をやめるやつはいない。
- また古典派理論の前提だと、名目賃金が上がると実質賃金もあがる。でも古典派の価格理論では、名目賃金が上がれば物価水準も上がるから、実質賃金は変わらないはずだ。一貫性がないぞ!
- これは古典派理論が完全雇用を前提としているから。不完全雇用では、非自発失業が発生するのだ。
- また古典派理論だと、供給は自分で生産を作り出す、つまりどんな水準の生産や雇用でも、需要価格と供給価格は同じだ。でもこれもちがう。
本文
- 1. 価値と生産理論のほとんどは、あらかじめ使われる(雇用される)リソースの量が決まっていて、それを相対的にどう分配して使うのがいいとか、その産物の相対的価値がどうだとかいうものだ(原注:これはリカードの伝統。リカードは国全体の生産量は考慮しなかった)。
- 2. 使えるリソースの量という問題も、人口とか資源量とかいう形で記述的には扱われてきた。でも、使えるリソースの「実際の雇用を決めるのが何か」という問題はあまりきちんと分析されていない。見過ごされてきたというよりは、根底にある理論があまりに単純すぎると思われて、ほとんど言及されなかったということ。
Section I
- 3. 雇用の古典理論は、ほとんど議論なしに次の二つの想定に基づいている:
- 4. (I) 賃金は労働の限界生産と等しい。 つまり賃金は労働が一単位減った場合に減少する価値に等しい。ただし不完全競争下だと他に条件がつく。
- 5. (II) 一定量の労働が雇用されるときの賃金の効用は、その雇用量がもたらす負の限界効用に等しい。 ここでの負の限界効用というのは、「こんな賃金じゃとてもこんな仕事はやってられない」と人が思うときの、その「やってられない」部分すべてだ。
- 6. この主張は「摩擦」失業とも一貫性を持つ。これは転職中の失業とか、急な変化に対応するまでのタイムラグからくる失業とかだ。それ以外に自発的失業というのもある。制度とか集団ストとか怠惰とかで仕事をしない人たちだ。でも、古典派の主張はこの二つ以外の「非自発的失業」というのを考えようとしない。
- 7. 古典理論では、雇用リソースの量はこの二つの想定で決まってくる。最初の想定からは雇用の需要関数が出てきて、二番目からは供給関数が出てくる。そして雇用の量は、限界生産の効用が限界雇用の負の効用とバランスするところとなる。
- 8. この理屈だと、雇用を増やす手段は次の4つしかない:
(a) 摩擦失業を減らすような組織や予測面の改善
(b) 労働の負の効用を減らし、追加労働のための実質賃金をあげて自発的失業を減らす
(c) 賃金財産業(労賃の効用が依存している財)の限界労働生産性を上げる
(d) 非賃金財の価格を、賃金財の価格に比べて高くし、同時に非賃金労働者たちの支出を賃金財から非賃金財に移す。
- 9. これは古典理論で雇用を詳細に扱った唯一の著書、ピグー『失業の理論』のまとめだ。
Section II
- 10. でも実際に見てみると、現状の賃金で働きたいのに働けない人がいっぱいいる。古典派はこれを、組合が賃金引き下げに同意しないからそういうことになると述べている。
- 11. もしそうなら、二つの点が指摘できる。
- 12. まず、名目賃金が下がると働かない、という労働者は、物価が上がることで賃金財の価格と比較した賃金水準が相対的に下がったら働くのをやめるか? (つまりインフレで賃金の実質価値が目減りしたら仕事を辞めるか?)そんなことはない。つまりある範囲内だと、労働需要は最低限の名目賃金水準で決まるもので、実質賃金水準で決まるわけじゃない。古典理論は、これは自分の理論の本質に関係ないことにしているけど、実は関係大ありだ。労働が実質賃金だけの関数でないと、古典派理論は壊滅だもの。労働が実質賃金だけの関数なら、物価が上下すると労働の供給関数も派手に変動してしまう。
- 13. さてふつうの経験からして、労働者は実質賃金よりは名目賃金(つまり賃金の額面)を求めて働く。労働者は、名目賃金(給料の額面)が減るといやがるけれど、賃金財の値段が上がっただけで(つまりインフレになっただけで)ストをしたりはしない。そしてそれは別に非論理的じゃない(これは後述)し、また現実にそうなっていることは否定できない。
- 14. さらに実際の不況を見ても、労働者が賃下げを受け入れないから失業が生じてるわけじゃない。労働者だって不景気のときにそんなに突っ張ったりしない。これを見ても古典派の理屈は変だ。
- 15. これを統計的に相関分析にかけて、名目賃金と実質賃金の変化を見たらおもしろいだろう。特定産業だけの変化の場合、名目賃金と実質賃金は同じ動きを見せるはず。でも経済全体の賃金水準が変化するとき、両者は逆方向に動くはず。短期的には、名目賃金が下がって実質賃金が上がるのは、失業増加に伴う現象だからだ。
- 16. いまの実質賃金水準が最低線で、給料がそれより下がったらみんな働かない、というなら、摩擦失業以外の非自発的失業はあり得ないはずだ。でもそんなことはない。いまの賃金水準で働きたがってる失業者はたくさんいる。これは賃金財の価格があがって、実質賃金が下がっている時にも成り立つ。だから実質賃金は労働の限界的な負の効用を正確にはあらわしていない。
- 17. でももっと本質的な批判がある。この話は、労働の実質賃金が労働者と実業家との賃金交渉で決まる、という発想からきている。古典派は、交渉で決まるのは名目賃金だけれどそれが実質賃金を決めているのだ、と言う。
- 18. つまり実業家と労働者の賃金交渉が実質賃金を決める、というのが古典派の理論だ。
- 19. これは個々の労働者だけでなく労働力全体にあてはまることになっている。また閉鎖系だろうと開放系だろうと、貿易の影響で名目賃金が低下する場合だろうと関係なくあてはまるはず。
- 20. でも名目賃金の交渉がほんとに実質賃金を決めるかどうかはアヤシイ。古典理論だと、価格は名目の限界費用で決まるはずで、名目の限界費用はかなりの部分が名目賃金に左右される。だから名目賃金が変わったら物価もそれに応じて変わり、実質賃金は(労働コスト以外の部分は除き)変わらない、ということになるはずだ。でも賃金の場合だけ古典派は主張がちがっている。そして、賃金交渉で実質賃金が決まる、という話がいつの間にか完全雇用に対応する実質賃金を交渉で決められる、という話と混同されている。
- 21. まとめ。古典理論の二番目の主張には、反論が二つある。一つ目は、それが実際の労働者のふるまいとちがう、ということ。みんな給料の金額が下がると怒るけれど、インフレで給料の実質価値が相対的に下がっても何も言わない。物価高になったらみんないっせいに仕事をやめるか? んなわきゃない。でもピグー『失業の理論』をはじめ古典派の前提だとそうなる。
- 22. 二つ目のもっと重要な反論として、実質賃金が賃金交渉で決まるという古典派の発想がそもそも変だ、ということ。この先の議論で、実質賃金を決めるのが何かを論じる。
Section III
- 23. ある業種だけが名目賃金削減に同意したら、かれらの実質賃金はほかの業種と比べて相対的に下がるからみんないやがる。でもお金の購買力が下がって、みんな一律に実質賃金が下がるときは(極端でなければ)あまり文句は出ない。
- 24. つまり名目賃金を巡る労使交渉というのは、各種の労働者集団同士の中で、総実質賃金の分配を主に左右するわけだ。労働組合がやっているのは、業種間の相対的な実質賃金を守ることで、経済全体の中での一般的な実質賃金水準をどうこうするもんじゃない。
- 25. だから労働者たちは、無意識にとはいえ、古典派経済学者よりはまともだ。名目賃金低下には抵抗しても、実質賃金の全体的な水準が変わるのには抵抗しないから。
Section IV
- 26. というわけで、ここで第三の失業である「非自発的失業」を定義する必要がある。古典派はこれが存在する可能性を否定しているけど。
- 27. 定義としては「名目賃金に比べて賃金財の値段が少し上がったとき、その名目賃金水準での労働総供給と労働総需要が、どちらも現在の雇用水準より大きいときの失業」となる。
- 28. 古典派の想定だと、この定義にあてはまるようなものは存在できない。だから古典派は、失業は単に職探しの途中か、あるいはその労働者が分不相応な賃金を要求しているだけ、として片づけている。
- 29. でも古典理論は完全雇用の場合にしか当てはまらない。だからそれで非自発的失業を論じることはできない。第二の想定を捨てて新しい体系を作ろう。
Section V
- 30. 古典派と決別するといっても、共通点は見失わないようにしよう。さっきの第一の想定は否定しない。それがどういうことかを考えよう。
- 31. 各種条件が同じなら、実質賃金と産出量(および雇用量)は一対一対応している。だからそこで雇用を増やしたら、実質賃金は下がるしかない。この点では古典派に同意する。
- 32. でも第二の論点を捨てたらどうなるか? 雇用の減少はその分かれらの受け取る実質賃金が増える(つまり賃金財で測った価値が増える)のは今まで通りだけれど、それは労働者たちが賃金財をもっとたくさん要求するから、では必ずしもない。だから労働者が低い名目賃金を受け入れても、失業は必ずしもなくならない。この議論は19 章できちんとやる。
Section VI
- 33. セイとリカード以来、古典派は供給は需要を生み出すと教えてきた。生産コストはすべて、経済全体で見れば直接・間接的に製品の購入にまわる、という話だ。
- 34. ミル 『経済学原理』 でもそれは明記されている。
- 35. その変形版として、個人が消費を控えれば、それまでその供給に使われていた労働や財が、資本的な富の生産に必然的に投資される、という議論がある。たとえばマーシャル 『国内価値の純粋理論』 (Pure Theory of Domestic Values) なんかにそう書いてある。
- 36. 後期のマーシャルやエッジワースやピグーだと、この手の記述はなかなか見つからない。いまじゃこんなはっきりした書き方はだれもしない。でも古典派はみんなこれが前提だし、これがないと古典派は崩壊する。要するに、稼いだ金はいつか何らかの形で使うしかない、というわけ。
- 37. 買い物には売り手と買い手がいて、支払いと受け取りは相殺される。だから、社会全体で見れば総コストと産出の総価値が同じというのはまあわかる。
- 38. また、他人から何ももらわずに自分を豊かにするような個人の行為が社会全体をも豊かにする、というのもまちがいない。だから個人が貯蓄すれば(つまり自分のお金で自分を豊かにしている)、それは必ず投資にまわることになる……
- 39. ……と考えるやつは、まるでちがうものをごっちゃにしてごまかされているのだ。いまの消費を控えるのと、それを将来の消費にまわす、という行動の間に関係があると思っている。でもこの両者を律する動機はまったく別物だ。
- 40. 要するに古典派は、産出全体の需要価格と供給価格が同じだ、というのを前提にしている。これを認めると、残り全部が決まってくる。貯蓄はすばらしいとか、金利への態度とか、失業の古典理論とか貨幣数量説とか、盲目的な自由放任賞賛とか。これはあとでみんな見直す必要がある。
Section VII
- 41. まとめ。古典派ってのは以下のような前提に順番に依存している:
(a) 実質賃金は、いまの雇用の限界的な負の効用に等しい
(b) 厳密な意味での非自発的失業なんてあり得ない
(c) 供給は自分で生産を作り出す、つまりどんな水準の生産や雇用でも、需要価格と供給価格は同じ
- 42. でもこの三つは実はお互いによりかかりあった堂々巡りの議論でしかないのだ。
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YAMAGATA Hiroo日本語トップ
2011.10.10 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)
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