アート的感性と生物学的能力

diatxt. 連載: アート・カウンターパンチ #6
diatxt. number 14 (京都デザインセンター, 2005/1) pp. 142-145
山形浩生



 この連載では何度かスティーブン・ピンカーを参照してあれこれモノを言っている。さてそのスティーブン・ピンカーが、最近邦訳の出た傑作『人間の本性を考える』でアートとかの役割についてあれこれ言っている。これまでの著書でも、ちょろちょろと触れてはいたんだけれど、今回のやつではまるまる一章を割いてかなり詳細な議論をしているのだ。ちょいとおもしろいので、今回はその話をしておこう。ぼくの考えともかなりちがうこともあるし。

 ピンカーはもちろん発達心理学の人だし、遺伝と進化を通じて人間のいろんな特性が決まってきた、という話をしつこくしている。『人間の本性を考える』の主要な主張は、人間というのがどんなふうにでも条件付けできるという「ブランク・スレート」説を徹底的に否定することだ。人間には生物として生まれながらに決まっていることがある。それを無理にゆがめるようなことをしてはならない――ピンカーはそう唱える。遺伝的にいろんなことが決まっているという説を持ち出すと、すぐに「それは優生学につながる! 優生学はナチスがやった! よって遺伝重視はナチズムにつながる悪い発想だ!」という短絡的な議論がまかりとおる。でも、現実に多くの証拠から人間がかなり遺伝的に規定されているという証拠は出てきている。だとしたら、それを無視して「人間みな平等」みたいなお題目の旗をふるのは無理があるし、人を無用に苦しませる。だからそういうのはやめようよ、という話だ。それにナチスがやってた、というだけで何でも断罪できるなら、エコロジーだってナチスの大好きな政策目標だったんだし。

 で、それがアートや芸術とどう関係しているの? うん、ピンカーはまず、最近の頭でっかちな現代アートを批判する。かれに言わせると、多くの現代アートはある意味で、人間には生得的な美の感覚を持たず、すべて後天的なすり込みによって決まっているというブランク・スレート説から発していることになる。多くの現代アートは、「美の概念を問い直す」というのをやる。マルセル・デュシャンでもなんでもいいんだけれど、便器を美術と呼んでみたりするし、あるいはセラーノみたいにキリスト像をおしっこに漬けてみたり、ダリみたいにマネキンにカタツムリをいっぱいはわせてみたりする。それはある意味で、一般に言われている「美」という概念が後天的に刷り込まれたものであり、往々にして社会が都合のいいようにでっちあげたものでしかない、という考え方が前提になっている。これまでは美とは縁遠いと思われていたものを、あえて「アート」としてまつりあげることで、そうした既成の「美」概念――ひいてはその背後にある社会的な制度――までが問い直されるというわけね。フレデリック・ターナーの著作を引いて、ピンカーはこの点をきちんと説明する。あるいは、美という概念そのものから離れ、それを否定する傾向さえある、とピンカーは指摘する。ポップアートは、これまで美しいとされていたものを従来のコンテキストから切り離して、ヘンテコな形で提示することにより従来の美というものを否定する。

 でも、とピンカーは続ける。赤ん坊の発達過程における視覚や聴覚の発展の中で、何をいいものとして評価するかはかなりはっきり決まっている。さらに人間のプロポーションとして好ましいと思われるものは、世界各国共通だ(この話はちょっと額面通りには受け取れないんだけれど、各種サイズの比率を取るとおおむね共通なんだって)。もちろん、人によって趣味はいろいろなので、ここで言っているのはあくまで平均的な嗜好の話だ。なんだかんだ言いつつ、生存に有利なもの、子孫を残すにあたって有利なものが、好もしく美しいものとして評価されているんだ、と。

 さらに、とピンカーは続ける。ベンヤミンじゃないけど、大量複製時代にあって、希少性によって価値を確保するやりかたは、もう成立しなくなった。ベンヤミンの言うアウラってのは、まあわかるようで具体的にはよくわからない。そこでこんどは、知的な制度としてのアートが成立してきた。ある種の訓練を受けた、知的選良だけがアートを理解できる、という話。これはブルデューの言う「文化資本」の話だ。これはアート側からの要請でもあったし、また自分をえらく見せたいという人々側の要求でもあった。で、きれいなものをきれいとか美しいというのは、バカでもできる(それは生物学的な要請で決まっているものだから)。差別化するためには、美しくないものに価値を敢えて見いださなくてはならない。それが現代アートの状況を生み出している。クライヴ・ベルが「美は愚鈍な体験に根ざしている」と述べて、すぐれた芸術のなかに美の居場所はないと主張したそうだ。この主張はまさにそうした発想を下敷きにしている。それにより、アートは本来の「美しさ」概念からどんどん乖離してしまっているんだ、と。

 じゃあピンカーは、どんなアートを支持しているのか? もちろんそれは、人間の生得的な認知や知覚に沿ったアートだ。かれはこう書く。

「(アートは)感覚器官にはじまって思考や情動や記憶にいたる、神経事象の連鎖的な流れの引き金を引くのである。その流れを詳細に調べる認知科学や認知神経科学は、芸術の効果がどのようにして生じるかを解明したいと思っている人に豊富な情報を提供する」(『人間の本性を考える』下、p.262ページ)

 アーティストは認知科学を勉強しなさい、というわけだ。そうすればもっといいアートができる。モダニズム初期の人々は、知覚心理学を一生懸命勉強していたよ、と。さらにかれは述べる。「私たちを芸術作品に引きつけるものは、単なる媒体の感覚体験ではなく、情動的な内容や人間の条件への洞察である。そしてそれらは、私たちが生物として抱える永遠の悲劇に関係している」(前掲書 p.263)。死ぬとか、人の知識の限界とか、そういったものをどう指摘してくれるかが芸術の価値なんだ、ということ。かれはそれを、種の声と呼んでいる。種の声をどう描き出すかが芸術の役割なんだ、と。

 ピンカー流の美の説明は、これまでこの連載でぼくが述べてきたものとある程度共通する。人間の生物としての特性にもっともっと密着しなきゃいけない、ということだ。でも、ピンカーの理論には大きな欠点がある。どうもそこで描かれている芸術がつまらない、ということ。そしてもう一つ、これが圧倒的に不十分であることもたぶん自明だろうと思う。というのも、美の規範は変わるからだ。これまでだれも美しいと思わなかったものが、あるとき急に美しいとされることはいくらもあるからだ。

 たとえば千利休は、それまでだれも美しいと思われていなかったとと屋の茶碗に美を見いだした。それは現代アートの多くとは話がちがう。「渋い!」という感覚はかなり多くの人に共有されているし、ほとんどの人はそれを本物の美として認識している。人によって見解はちがうだろうけれど、ぼくはキリスト像をおしっこに浸した代物をほめている人は、別にそれが美しいからじゃないと思う。「いろんなものに浸してみましたが、おしっこが一番光の具合がいいんですよ」という話じゃないだろう。そこにあるのは、ぼくはピンカーの指摘するようなブランク・スレート説の延長でさえないと思う。単に、奇矯なことをしてやろう、人のいやがることをしようという低級な喜びでしかないと思う。他と差別化するための知的資本、という意味合いさえないんじゃないか。でも渋さとか、侘び錆び概念はちがうようだ。  あるいはいまのロックでもいい。人々はロックを本当にいいと思ってきいている。そしてそれは別に何のファッションでもない。変な前衛アーティストをほめて見せるのは、知的スノビズムを満足させるかもしれないけれど、いまナイン・インチ・ネイルズが好きだと言ったところで別に何の箔もつかない。昔は親への反抗でロックを~、なんてのがあったかもしれない。親がいやがるからわざと騒々しいプレスリーを聴いてやるぜ、というような。けれど、いまはそんなのもない。でも、みんな本当にいいと思ってロックを聴いている。それまでとまったくちがった美の概念ができて、それが定着している。なぜ急にそういう変化が起きたんだろう? ノイズ音楽をきくと生殖器官が振動して子孫を残しやすくなるために、あるとき一瞬で遺伝的にそういうものを美しいと思う遺伝子ができあがったのか? そんなことあるわけがない。もしそれが遺伝的なものだとしたら、それは昔からあったものだ。でも、なぜそんな遺伝的な回路があるんだろう?

 この連載ですでに述べたことだけれど、そこにこそ芸術の価値があるとぼくは思っている。ノイズまみれのロックに人が反応するのはなぜか? むしろ認知科学こそそういうメカニズムを研究すべきだ。パトリシア・ピッチニーニの無意味な流線型すべすべにぼくたちはなぜ反応するのか? それは認知科学に導かれるものじゃなくて、逆にそれを導くものだ。本当にすぐれた芸術やアートというのは、むしろこれまで科学の知らなかった人々の感覚や情動を掘り出してくれるものだ。ぼくが考えているアートや芸術の価値は、ピンカーと似ているけれど、でもその反対だ。新しい情動を掘り起こすのがその意義だ。もちろん、それはずっとむずかしい。わかっている感覚反応をなぞるのは簡単だけれど、でもわかっていない新しい情動のツボを見つけるのはずっとむずかしい。でも、それを(ごくたまにとはいえ)成功させるからこそ、芸術やアートは社会においてそれなりの価値を認められている、とぼくは思っている。逆に、いったん見つかった感覚回路なんて、最終的には電極さしこんで刺激しとけばいいんじゃないか、とさえ思うのだ。



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