アートの合理・非合理

diatxt. 連載: アート・カウンターパンチ #4
diatxt. number 12 (京都デザインセンター, 2004/04) pp. 138-141
山形浩生



 さて、これまでの3回で、社会問題的提起的なアートのあり方みたいなのは無意味なんだということでずっと否定してきた。でも、多くの人がそういう社会問題提起的なアートのあり方というものに安住していて、それでいいんだと思いこんでいる。なぜそういう形でのアートというものが出てきたんだろうか? そしてなぜそれが(ここ数世紀にわたり)正当化されてきたんだろうか? それがある時代環境においては意味をもっていたんだろうか? そしてなぜそれがいまは無意味なのか? そういう話をちょいと考えてみよう。

 人間の人間として特徴づける基本的な技能の一つは、ものを作るという行為だというのは誰しも異論のないところだろう。通常、ものを作るのは何か実用的な目的があってのことだ。寒さから身を守るための衣服、住むための家屋、狩猟のためのツール。でも、ほとんどあらゆる文化には、実用性や合理性を離れた物作りの慣習がある。日本の縄文時代を見ても、土偶やどう見ても実用性とは関係ないことが明らかな火炎土器、あるいはラスコーやらオーストラリアのエアーズロックの壁画その他。そしてそうしたものが現代のぼくたちから見て、ある程度の美術的な価値を持っているのも、これまた否定できない。いや、「ある程度の」なんてものじゃない。昔、ニューヨークのグッゲンハイム美術館でアフリカ民俗アート展というのをやっていて、そこに展示されていた呪い人形の衝撃をぼくは忘れることができない。それはこんな、粗雑な木彫りの人形だ(文字通りの木偶、ですな)。だが、そこには釘やらブリキ片やら、無数の金属のかけらが打ち込まれている。作った人が、相手に対する呪いをこめてその金属片を次々にうちこんでゆくのだ。それがもたらす心の不穏さは、ちょっと並の美術品なんかでは太刀打ちできない。

 こうした事例をもって、アートは普遍的なものである、てなことを言うのは簡単だ。あらゆる文化には、実用性を離れた美の探求があるのだ、そしてそれは普遍性を持っているのだ、という話。でもその一方で、それを疑問視するべき理由はいくらでもある。何よりも大きいのは、そうした道具立てがいまのぼくたちのとっては不合理で非実用的に見えても、かなりの確率でそれを作っていた当事者にとっては十分に合理性を持っていた、という事実だ。

 これを理解できなかったのは、あのシュルレアリズムの親玉アンドレ・ブルトンだった。ブルトンはあんまし頭がよくない人だった。かれはある種のプロパガンダの名手ではあったし、運動の組織屋としては優秀だった(そして作家としてもぼくはそこそこ気に入っているのだけれど、それはまた別の話)。かれは芸術とかアートというものの本質を、反合理性なのだ、と主張し、そしてそれを通じて自分たちのやっているシュルレアリズムを正当化しようとした。かれが考えたのは、こんな理屈の連鎖だ。

  1. 原始時代の「美術品」と見なせるものは、呪術や信仰の反映である場合が多い。
  2. 呪術や信仰は、非合理なものと見なされている。
  3. したがって「美術」やアートは非合理なものである。いや、非合理性こそが美術やアートの本質なのである。
  4. 現代においては、科学と合理性によってかつての魔術や呪術や信仰は、不合理なものとして排斥され、抑圧されている。
  5. 美術がえらいのは、その近代科学的合理性に抑圧された部分に力を与えているからで、それは古代からずっと続く美術の流れなのだ。
  6. (そしてシュルレアリズムは現代において非合理性を追求しているから、シュルレアリズムは本当に正当な美術の流れをくむものなのである)

 かれはこうした議論を『魔術的芸術』なんて本で展開している。で、確かに原始時代の「美術品」の多くは、呪術や信仰の反映ではある。トーテムを表すトーテムポールもそうだし、土偶もたぶん宗教的な意味合いを持っていたんだろうとされる。さっきぼくがあげただから(1) の議論は特に異論はない。もちろん、はっきりとはわからない場合もある。土偶が当時の子どもたちのおもちゃでしかなかった、という可能性はないわけじゃない。またラスコーの壁画なんかは宗教的な意味があるとされることも多いけれど、でもホントにただの落書きじゃないのか、という可能性は排除できない。でもそうでない場合があるにしても、多くの「美術」が宗教的呪術的な意味合いを持っていること自体は否定されるもんじゃない。

 問題はその次のところだ。呪術や信仰は、確かに今日では非科学的で不合理で、実用性のないものと見なされている。でも、当時の人たちにとっては、おそらくそれは科学的で合理的だったのだ。土偶を作って神様の宿るものとしてそれを拝むのは、当時の人々にとって実用的な意味があった。ご先祖様を供養してあげないと、雨が降らなかったり火事がおきたり、いろんな悪いことが起こる。したがって、そういうのを防ぐための手段として人形を作ったり直接的な用途のない装飾品をたくさん作ったりするのは、そうした災害を防ぎ、収穫を増やし、病気を避けるための手段として、かれらにとっては合理的で実用的なことだったはずなのだ。もちろんそれは、いまの僕たちからすれば迷信だ。でも当時の人たちにとっては、それは長期的な観察から導き出された因果律だったはずなのだ(もちろんそれが現代的な科学の基準からしてまちがっているにせよ)。アフリカの呪い人形だって、商売敵や何らかの憎い相手に実害を与えると思えばこそみんな、熱心に釘をたたき込んだ。それは、ただのパフォーマンスなんかじゃなかった。

 文化相対主義な人たちは、ここからすぐに科学もまた思いこみでありこうした昔の人たちの変な信仰と等価で云々、という馬鹿な議論を平気でしたがるけれど、ぼくの言いたいのはそういうことじゃない。ブルトンは、美術というのは不合理性の発露だと述べたけれど、でもたぶん現代の変なゲージツ家さんたちはさておき、昔の人々は、合理性の発露としてそうした宗教美術みたいなのを作っていたんだろう、ということだ。

 そうなると、かれの議論の (3) は成立しない。むしろ、古代からの連鎖みたいなものを考えたいのであれば、合理性に基づくアートとというものを追求したほうがいいんじゃないか、という議論だって成り立つ。合理性に基づくアートってなんだ? たとえば多くの人はコンピュータを合理性の権化だと思っている。どこかでやっていた、コンピュータのチップのパターンを拡大して展示する、なんてのは合理性を追求したアート、になるのかな? (いや、そうやって見せること自体は何の合理的な目的にも貢献しないからちがうかな?)あるいは数学や物理や各種理論の持っている「美」とかエレガントさはどうだろう。いまの物理学における超ひも理論改めM理論は、もはや実験による検証不可能な領域にまで入り込み、ひたすら理論のエレガントさだけで動いている。そういうエレガントさの追求のほうが、古代の土偶や呪術に近いのかもしれない。かつてギリシャのピタゴラス学派は数字や幾何学に宗教的な意味を見いだし、その教義のために無理数の存在を隠そうとしたけれど、それに通じるものがある、のかもしれない(ただし、一部の物理学者は、それ故にこのM理論信奉者一派を嫌っている。たとえばマゲイジョ『光速より速い光』では「連中は神が自分にフェラチオしてくれると思っている」と罵倒されている)。

 またもう一つ、去年一部でかなり話題になった山本義隆『磁力と重力の発見』なんかを読むと、魔術や呪術といった非合理性を科学が抑圧する、という単純な図式さえ成り立たないこともよくわかる。ニュートン物理学の中心的な概念の一つである万有引力は、「間に何もないのに作用する力」というものを認めることで初めて導入され、そしてそれが近代科学の核となった。真の合理主義たる機械論者は、そんな気持ち悪い概念は認めなかった。逆に、間に何もないのに作用する力、というのは魔術の一種と考えられていたのだった。

 というわけで、たぶんブルトンの議論はほとんどが成立しないだろう。しかしながら、すべてのもっともらしいがまちがった議論と同様に、ここにもちょっと正しい議論が含まれているとぼくは思う。それは、現代の「美術」とか「アート」というものが、ある種の合理性に対する反応(肯定であれ反発としてであれ)として存在している、という認識だ。それはブルトンが言うみたいに、昔から一貫してそうだった、ということじゃない。ただし、かなり昔からそういう要素をもった美術やアートとしか言いようのないものが存在し続けていたのは事実。たとえば、古代中国の山水画のようなものは、明らかにそういう要素を持ち続けている。でも、その要素というのは現代においてはきわめて強化されてきた。そしてそれが、社会問題提案型の美術やアートが何となくもっともらしく思えてしまう理由をかなり説明できるだろう、とぼくは考えている。

 前フリだけで今回は紙幅が尽きた。ただちょっと追記しておくと、それはたぶん美術やアートと親戚筋にあたる、小説だの文学だの言う話とも通じるものだ。昔ぼくはここで、「飢えた子供の前で文学が何の意味を持つか」という話を引き合いに出したことがある。それに対するアンドレ・マルローの答えはまさに、文学が社会問題を提起できることがえらいのだ、というものだった。それがいま成り立たなくなっているという話と、アートや美術が持っている意味の変化、というのはたぶんまったく同じことなのだ。ということで、続きは次号。



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