続々・美術というものの本質について

diatxt. 連載: アート・カウンターパンチ #3
diatxt. number 11 (京都デザインセンター, 2003/11) pp. 140-143
山形浩生



 原著刊行からはや六年、やっとやっと、スティーブン・ピンカーの名著『心の仕組み』邦訳が刊行された。この本は脳内の各種の情報処理と、それが進化によってどう発展してきたのか、という問題を、様々な人間行動の説明を通じて解明してくれる実に刺激的な本だ。

 その中ではありとあらゆる人間行動――家族、友情、セックス、戦い――が扱われているのだけれど、その中にはもちろん、芸術とかアートについての部分もある。そして……それとはちょっと別のところで、3Dステレオグラムが、いかに人間の脳内情報処理について多くの示唆を与えてくれるか、という下りがあるのだ。

 3Dステレオグラムをやってみた人は知っているだろう。でたらめな点の集まりにしか見えなかったものが、ちょっとした工夫でまったく別のところに目の焦点があたり、そしてその瞬間にいきなり、いままでまったく見えなかったものが見えてくる不思議さ。それは絵の不思議さであるとともに、自分自身の不思議さだ。自分はなぜこんなものから、こんな情報を引き出せてしまうのか。一部の学者は、人間にそんな複雑な情報処理ができるわけはない、と主張したそうな。だが、できてしまう。

 前回の終わりで、ぼくはアートや芸術というものの現代的な意義というのは、科学に近いんじゃないか、という話をした。それは、ピンカーが3Dステレオグラムに対して行っている評価と同じことだ。絵なんてただの色のついたペンキの集まりにすぎない。でもその固まりをみて、ぼくたちはなにやら物体を見てしまう。物体だけじゃない。いろいろ変なものをそこから感じ取ってしまう。それは、その作品を経由して、自分自身の情報処理の不思議さを認識するということだ。

 それはある意味で、ぼくたちがポルノを見て興奮するようなものだ。ぼくたちは、それが紙の上のインキだというのを知っている。セルロイド経由で投影された光だったり、モニタ上のドットの集まりだというのを知っている。そこに実体としての肉体があるわけじゃないのを知っている。知ってるけど、見て興奮してしまう。それはぼくたちの情報処理系が、多少手抜きをしているからだ。本来であれば、「これは本当にチンコをたてるべき相手か」とか「これは本当にマンコをぬらすべき対象か」というのを厳密に判定すべきなんだけれど、これまでの人間の進化のプロセスでは、そんな必要はなかった。それっぽいものが見えていれば、途中を省略してすぐに興奮をはじめてしまえばいい。ポルノはそういう、人間の情報処理の手抜きを明らかにしてくれる。実はぼくは、ポルノに人気があるのは単に興奮するためだとは思わない。多くの人は、たぶんこの手抜きをおもしろがっている。「被虐のなんたら」といったタイトルを見て興奮する自分をおもしろがっている。そこには、ある種のアートをぼくたちがみて感動するのと同じ働きがあるのだ。

 そういうのはもちろん、美術の歴史にはたくさんある。たとえばスラーの点描の価値は、別にそこに描かれているものがすばらしいとか美しいとかいうんじゃない。その描き方にある。キュビズムのおもしろさだってそうだ。一部の彫刻もそうだ。あるいは一部の水墨画でも。たった一つの線、変な四角、まるで実物とちがった形態――でもそれを見て、ぼくたちは何かを感じてしまう。ある人は、それが対象なりなんなりの本質を描き出しているのだどうのこうの、という話をする。でもそうじゃない。そうした変な描き方、変な表現が抽出しているのは、ぼくたち人間の頭の情報処理の本質なのだ。それはぼくたちの情報処理の手抜き、というかすき間をついてくる。すぐれた美術は、ぼくたちの知らなかった、自分自身の情報処理方法をえぐりだし、つきつけてくれる。

 それは再現可能なものだ。スラーの絵を見て、おもしろいなーと思って真似する子供はよくいる。ぼくもやった。遠近法を知って、ぼくは子供の頃『未知との遭遇』のポスターみたいに、地平線めがけて道路や線路が続く絵をよく描いた。それはガリレオやニュートンの物理法則を、いまぼくたちが追試して(比較的)簡単に検証できるようなものだ。でももちろん、物理法則と同じで、それを最初に発見し、定式化(あるいはタンジブルなメディアに固定化させた)人物は歴史に残るわけだ。

 そして、その情報処理は視覚だけの話じゃない。その具体的な例としては、たとえば初回でとりあげた、パトリシア・ピッチニーニの作品がある。彼女のカーナゲットがおもしろいのは、実際に走りもしないプラスチックのかたまりによって「早そうだ」とか「高速らしさ」といったものをぼくたちに感じさせてしまうことだ。それを見ることで、ぼくたちは自分自身について新しい知識を得る。流線型とか、メタリック塗装とか、なんかそういうものに「速さ」を感じる部分があるんだ、というのがわかる(ちなみにに塗装前の石膏のやプラスチックのかたまりは、別にあまり速そうな感じはしない)。なぜだろう。流線型はさておき、メタリック塗装なんてぼくたちの進化途上にあったわけじゃないのに。どうしてそれがぼくたちの情報処理系に、こんな形で作用するんだろう。わからないけれど、この作品は少なくともそういう処理の存在は教えてくれる。これまでだれもやらなかったような形で。もちろん、かつて必要以上に流線型を多用したデザインがはやった時代はある。未来派とかもその気がかなりあった。でも、かれらは速度そのものに興味があった。速度を感じさせる部分だけに注目し、それを実際の速度と切り離したところに、そのおもしろさがある。

 それが具体的にどう機能しているか、どういう処理が行われているかを解明するのは、もちろんアーティストの仕事じゃない。でもその一方で、ぼくはこの考え方から、三上晴子の数年前までの作品がマン・マシンインターフェースの実験やデモシステムのようになっていた理由がよくわかるのだ。彼女はある意味で、人間に潜む未知の情報処理を指摘するだけでなく、それをもう少し深くつっこんで考えようとしていたわけだ。

 そしてそれにより、人は美術やアートに対して、本当の意味で直接対峙できるようになる。他人に説明してもらうまでもなく、わかるものはわかる、わからないものはわからない。それでいいはずなのだ。これまでの回で、ぼくは「社会性」に依存した作品のあり方はダメだ、という話をしてきた。この雑誌にも、社会性重視型の作品評価記事がいくつか載っている。だれそれの作品は一貫してジェンダーをテーマにしてきたとか、従軍慰安婦をとりあげてきた、とか。でもそれはしょせん、説明がないとわからない作品にしかなり得ず、時代を超えることもない。

 じゃあ、今後のアートとか美術で出てくる可能性のあるものって、他に何があるだろうか。これはたぶん次回のネタになるんだけれど、いくつか考えられる。たとえば、携帯電話の持っている変な性質がある。なぜ携帯電話で話している人たちは、簡単に自分たちの世界に入り込めるのか。ふつうの電話でも多少それはあるけれど、携帯電話ではそれがずっと強力だ。一方で、その結界に対する感覚が日本ではやたらに強い。フィリピンやタイや香港や、その他アジア諸国では電車の中で携帯電話を使おうと何しようとだれも気にしない。ぼくはそこの情報処理に興味がある。なんかこれを明確な形で抽出できないものか。

 あるいはぼくは最近、K.Kなる人物の「ワラッテイイトモ」というビデオ作品を見る機会があった。それは例のテレビ番組を切りつないで作ったビデオ作品なんだけれど、それはとてもうまいこと、あの番組――そしてテレビのバラエティ番組と呼ばれるもの一般――の持っている本質を抽出していた。そしてそれがいかに異様なものであるかも。

 普通の町の風景の中にぼくたちはテレビを見るとき、そこからの情報に自然にフィルタをかけている。テレビのふちはかなり奇妙な境界として機能している。でもこの作品は、そのテレビの中に別のテレビを置くことで、ぼくたちがテレビにかけている変なフィルタをあらわにしてくれている。これまたぼくたちの認識していなかった、自分たちの情報処理のありかたをはっきりと感じさせてくれる。

 たぶん今後、こういう作品が増えてくるんじゃないか。そしてそれと同時に3Dステレオグラムのように、従来型の「アート」とは全然ちがう形で、はるかに「アート」的な機能を果たすものがどんどん増えてくるんじゃないか。そうなったとき、アートという「制度」がこんどは問題になってくる。が、これもまた別の話。

 そしてそうなってくると、芸術的な感性というものの考え方もちがってくるだろう。3Dステレオグラムが見える人もいるし、なかなか見られない人もいる。見られない人は、目のせいかもしれないし、頭の中の情報処理のせいかもしれないんだけれど、別にそれができないからといって、劣っているとか粗野だとか思われることはない。同様に、もし美術や小説についてそうした考え方ができるなら、ピカソが評価できないとか、ジョイスがわからんとか、ウィリアム・バロウズなんかアホダラ経にしか思えない、といった話も、正直にしてまったくかまわなくなるだろう。文化的な洗練度とは関係ない、背が高い、目がいい、といったのと同じ特性にすぎないということになるんだから。

 もちろん実際には、人間はそれをもとに新しい差別を作り出すだろうけれど。そしてまた、そうした差別にたかる寄生虫も出てくるだろうけれど。「美術品を飾るのは、ある種の肉体的(情報処理的)特性を持たない人を排除する差別行為だから、謝罪と賠償を」といった具合。ただまあ、そこまで面倒見切れませんがな。



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