続・美術というものの本質について

diatxt. 連載: アート・カウンターパンチ #2
diatxt. number 10 (京都デザインセンター, 2003/07) pp. 140-143
山形浩生



 前回ぼくは、アートだの芸術だのが、やたらに社会問題にコミットしたがるのは無意味だ、という話をした。アートやブンガクは、飢えた子供の前では何もできない(できると主張するやつは、どうしようもない嘘つきか、何かをごまかしているか、悪質なバカだ)。アメリカの空爆に対しても何もできない(何かアピールをしてみせましたとか、それをテーマにしてなんか作りました、というのは数のうちには入らない。それが何かを変えましたか?) それは、電気かみそりやシャンプーが飢えた子供の前で何もできないのと同じこと。でも、だからといって電気かみそりやシャンプーが無価値だ、ということにはならない。世の中、飢えた子供以外にも人はいる。その人たちになにがしかの価値を提供することは、無意味であるはずがない。あらゆるものは、特定の状況で、特定の人に特定の形で貢献できればいい。アートだの芸術だのだって、例外じゃないはずだ。前回ぼくが書いたのはそういうことだった。

 で、これからぼくは、芸術やアートなるものが貢献すべき特定の状況とは何か、特定の人とは誰か、特定の形とはどういうものかをちょっと考えてみたいのだ。が、その前に時事ネタを……

 なぜアーティストだの芸術家だのは、自分が何ら影響力を持っていないくせに、大きな社会問題についてさも心配しているような顔をする人が多いのか? それはもちろん、まさにかれらが大した影響力を持っていないからだ。そしてそれ故に、かれらが社会の中での自分の居場所や社会的な役割、存在意義に自信がないからだ。いったいあなたのやっていることは何の役にたつんですか、と言われて、きちんと答えられる人はほとんどいない。だからこそ、機会を見つけて自分たちが大きな問題と関係しているようなポーズをとることで、自分たちの活動がなにやら社会的な重要性を持っている、という気分を味わいたいわけだ。もちろん、すべてのアーティストや芸術家がそうだ、というわけじゃない。多くの人は慎ましく、分相応な活動や発言をしている(または何も言わない)のだろう。そういう人はもちろん目立たないので、見えにくいだけなんだと思う。でも、ときどきそういうアーティストや芸術家の社会的ポーズがずいぶんと目立って目障りに思えるときがある。

 たとえば、最近の9.11やイラク爆撃のときみたいに。

 これらの出来事に際しては、多くの文化人が実にうれしそうにいろいろきいた風な口をきいていた。というより、きかされていた、というべきかもしれない。自分とは関係ないことだ、とはっきり言える人はほとんどおらず、むしろこれと無関係なふりをすることは誰にも許されず、万人が何か否応なしに責任を負わなくてはならない、といった物言いが見られた。で、何か言わなきゃとは思っても何も言うことを思いつかなかった人は、自分が思いつかなかったこと自体が何かそれらの事件の衝撃性を示しているのだ、といったへんてこな理屈に頼るのだった。

 それはそれでほほえましいことなんだけれど、一つ面白いのは、こういう事件をきっかけとして、アーティストなり芸術なりというもの(あるいはそれをやる人々)に対する社会的な認知度みたいなのが、ちょっとは高まるということだ。ある意味で、こういう時にうれしそうに反戦アピールだのなんだのをするアーティストや芸術家にとって、戦争やテロというのはむしろネタになっている。戦争やテロ、悲惨や悲劇は、かなりの部分でアートや芸術を活性化する。逆にいえば、アートや芸術の一部は、明らかに戦争やテロや各種の悲劇に寄生している存在だと言えるだろう。

 その昔、『アイアンマウンテン報告』という本を訳したことがある。この本はとてもおもしろい本で、平和が実現不可能なものであり、それを目指すことがいかに危険なことかについて、アメリカ政府の特別委員会がまとめた報告書ということになっている。人間のあらゆる社会システムは、暴力をベースにしているし、科学もイノベーションも戦争があればこそ発展する。経済も、軍事をある意味で安定装置として利用することで戦争システムに依存している。

 そしてこの本は述べるのだ。アートとか芸術というものも、戦争を前提にして成立し、発展してきた、と。アートの本質は、戦いを描き、殺戮を描くことだった。抗争、対立、勝利、敗北。最初のアートともいうべきラスコーの壁画を見よ。動物たちとの戦い、殺戮を描いているではないか。それ以降の絵画や彫刻でも、戦いは重要なテーマだ。アートはそれを通じて戦争に向けて人々の意識を組織する。そして、それによって生じた戦争をネタに、アートも芸術も生き延びる。戦争の悲惨を描くことは、戦争に反対しているように見えて、実はそうではない。戦争は常に、「悲惨な戦争を避けるため」という口実のもとで行われるからだ。戦争反対を唱えることは、すぐに戦争システムの一部と化す。戦争なしの芸術やアートのあり方はほとんど考えられない。戦争こそが芸術やアートに意味づけを行っているのである。したがって、戦争を廃止した完全平和社会に移行することは、芸術などの文化活動の衰退を招くであろう。つまり人類の文化的な水準を維持するためにも、戦争を人類から奪ってはならないのである!

 ちなみにここの部分には注がついていた。実は、戦争を前提としないアートや芸術というのはないわけじゃない、という。近年の現代芸術は、確かに戦争とは関係ない方向性を模索しつつはある。でも、戦争による意味づけを欠いた芸術は、新しい意味づけを見いだすことができずに、まったく無意味な混沌や思いつきと化し、まったく力を持ち得ていない、と。

 もちろんこの本はブラックユーモアの反語的なジョークだ。でも、この指摘は妙にポイントをついている。そしてこれは、戦争をはじめ各種の悲劇で活気づく一部の「表現」の現状に対するかなりきつい批判となっている。反戦を唱えるのは、実は戦争そのものの一部でしかないんじゃないだろうか。戦争に反対して見せて、戦争やテロの悲惨を描いたりするのは、実は戦争ドラマに貢献すること、なのかもしれない。先日顔を出した場違いな宴会で、ある国会議員が「お国のために死んでゆく若者の姿を見せればいいんです。そうすれば愛国心は一気に上がります」と真面目な顔で述べていた。それを聞いて「その死んでゆく若者はどうやって調達するんじゃいヴォケェ!」と思っただけで口にしなかったのはぼくが臆病なせいだけれど、何をどう描いてもそういう使われ方はいくらでも出てくるだろう。無邪気に反戦を唱えたり、無邪気に社会問題をネタにした作品を作る、あるいはそういう作品解釈をすることにぼくが違和感を感じるのは、それ自体がその「問題」を強化して延命させてしまうことに、その無邪気さが無自覚なせいもあるんだと思うのだ。

 もちろん――ここからはちょっと余談だけれど――そうじゃないアートや美術というのはもちろんある。先日、東京でやっているミレー展をつきあいで見に行った。絵そのものは趣味じゃないんだけれど、ぼくがおもしろいと思ったのは、こうした絵画がかつて人気を博した理由のほうだった。ちょうど経済力をつけてきていた一般農民や市民たちが、自分たちの姿が描かれているのを見たがったからだ、という話だ。そこでのこのアートの、領域内での価値というのは、新しい対象、新しく描けるものを見つけて領域を拡大したことにあるんだろう。でもそれが受け入れられた理由、つまり対外的な価値というのがそこにはあった。自分自身を見たい――たぶんそれは、いまのスナップ写真やプリクラみたいなものだったと思うのだ。そしてそういうふうに対外的に獲得された価値は、最終的にミレーだのバルビゾン派だのが芸術的な価値を持つと認められるようになるプロセスにおいて、大きな意義を持っていたはずだ。

 この価値は、さっき述べたような社会問題なんかとは全然関係ない。もちろん、そういう見方をしようと思う人はいるだろう。たとえば土門拳の写真が、本来何の色づけもないが故に、かえっていろいろと社会的な意味づけをくっつけて受容されてきたように。そして同じ貧乏人を描くものにしても、たとえばイタリアのネオ・レアリスモ系の映画が持っていたように、はっきり社会批判の意図をもって行われている場合も多々ある。でも、絵に自分たちを見いだして喜んでいた人々は、別に自分の生活の悲惨さやつらさをうまく訴えてくれたから喜んでいたわけじゃない。単に、「あ、おれだー」とか「あ、隣のおばさんみたいー」とかそういうレベルで喜んでいたわけだ。いまもそういう価値というのは存在するんだろう。そしてそこらの農民や商人を描いた各種の絵が持っていた価値を、現在でも再現することはできるんだろう。「堆肥を運ぶ農民」は、いまなら「パソコンの前でうろたえる管理職」、とか。「レモンを売る少年」は、いまなら「マクドナルドで0円スマイルをふりまく女子高生」、といったところだろう。さっき土門拳を挙げたけれど、一部の写真はいまもそういう意義をもって存在している。Hiromixが流行ったのも、それに近い価値が一つの根拠になっていたはずだ。それだけでアートとか美術とかの価値にはつながらないのも事実だから、それをどう処理するかをもっと考える必要はあるのだけれど、たぶんここに美術とかアートの価値を考える方向の一つがあるはずだ、とは思う。

 が、それはこの連載でぼくが言いたいことの中心じゃない。次回からは、それとは別にぼくが芸術やアートなるものが持っていると考える意義についてもう少し述べる。早い話が、アートや美術はいわば「文系」的な活動だと思われているけれど、ぼくはそれがもっと科学に近いものだと考えているのだ。というところでまた次回。



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