山形道場 ?? 回

今月の喝! と考察:映像は高画素高精細度化だけでいいのか?

(『CYZO』2008 年 12 月)

山形浩生

要約: くだらない映画でも小さい画面なら我慢して見られる。つまらないギャグは、高画質でやられると許せないが低画質だと許せる。なんか内容と精細度の最適な組み合わせがあるのではないか? いたずらに高画質にするだけが能ではないかも。



 YouTubeのおもしろさは、おそらく読者のみなさんには今更言うべきにも非ず。昔のテレビやらミュージックビデオが懐かしくてサルのように検索して見まくってしまう時期を経て、次第にそこで公開されている無数のホームビデオ、コーラ&メントスの噴出をひたすら撮った映像やら、うだつの上がらない学生が部屋でくだらない時事漫談をするだけの映像、そしてそれに返事をつけたりする内輪の争いめいたやりとりなんかが、結構おもしろかったりする時期にさしかかる人も多いだろう。

 で、問題はなぜそんなものがおもしろく思えるのかということだ。たぶんそんなものを普通のテレビでやったら、それが万人にアピールするもんじゃないということを除いても、たぶん石を投げられるだろう。

 ぼくはそれは、メディアの形式に関わる話じゃないかと思うのだ。

 それは、愚作映画『スピードレーサー』でも感じたことだ。かつて粗く小さな画面向けのアニメが採用した表現——ひたすらアップの連続、原色の乱舞、誇張されたアクション——をそのまま忠実に再現しようとする意図はわかる。でも、それを大画面に移植すると見るに堪えないものになっていた。あるいは、三〇年前のテレビ番組のDVD版を見ると、異様に生々しくて顔をそむけたくなることも多い。そこで使われている表現は、テレビ、しかもその時代の標準的なテレビをベースに、その特性や欠点を補うように作られている。それが映画の画素数とサイズにはマッチしていないのだ。

 それはおそらくいろんなところに無意識に影響している。かつて漫画家の西原理恵子は、ギャグネタでアマゾン奥地にまででかけつつ、近年のギャグの変化について愚痴っていた。かつてコント五十五号(というと知らない人も多いだろうが、萩本欽一のやっていた漫才グループだ)の頃は、洗面器が棚から落ちてきただけでみんな笑ってくれたけれど、最近の読者や視聴者はすれっからしで、カラダ張ってアマゾンでピラニアにかじられないと笑いがとれない、と。でもYouTubeを見ていると、洗面器が落ちてきた程度のくだらないネタでも、笑えるものは結構笑える。変わったのは読者や視聴者ではなく、それを表示している媒体なんじゃないだろうか? あるいは最近のバラエティ番組がつまらないとはよく言われる。でもそこでやっていることが、かつてのバラエティとそんなにちがうとは思えない。ただ、いつの間にか「お茶の間」のテレビの画質があがり、その映像とゆるいギャグとのギャップが出てきたんじゃないか。

 映像というと、メーカーも放送局も、そして消費者も、すぐに高画質とか高精細度に走ってしまう。ビデオテープよりDVD、DVDよりブルーレイ等々。でもひょっとしたらそれはまちがった発想なのかもしれない。ちなみに、これはアダルトビデオにも言えることではないかと思うんだが。なんでもいいから高精細度ではなく、中身にマッチした器を提供することを考えるべきじゃないか。YouTubeでくだらないビデオが開花したのも、それがなまじ高画質でなく、低質な内容にうまくマッチした低画質だったから、という面が実はきわめて大きいんじゃないか。低画質だからこそだからこそみんな、いい加減なホームビデオでも気張らずに公開できるという面もあるし。

 ぼくはここに情報機器の新しい方向性があると思う。内容のレベルにあわせて自動的に画質を調整してくれるような、そんな技術はできないものか。くだらないものは低画質、重要なものは高画質、という具合に。洗面器ギャグやバラエティはかつてのビデオテープの三倍速くらい、重要なものはハイビジョン。それをさりげなく調整してくれて、帯域幅を節約しつつ中身にあった表現に切り替えてくれるといったことを、今後のインテリジェントな映像機器は目指すと成功するんじゃないだろうか。

近況:ハイビジョンどころかろくにテレビも入らないアフリカ奥地から帰ってくると、世界経済が崩壊していたのでびっくり。浦島太郎状態です。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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