要約: 中国が要求した検閲にグーグルが屈したことで批判が起こっていて、グーグルはそんなのに妥協するくらいなら交渉を蹴るべきだったと言う主張がされる。でも中国にとっては、グーグルがまったくないよりも、検閲版のグーグルでもあったほうがずっといいし、批判者たちの求める民主化にも貢献するはずだ。
グーグルの中国版が検閲されているというのは有名な話だ。「民主主義」「人権」ということばを検索しても、結果は本物とはぜんぜんちがっている。(ちなみに日本向けグーグルも検閲されていて、あまり過激なエロが検索結果に出ないのも一部では有名だ)。これは、かつてはグローバルと思われていたインターネットに国境ができつつある例としてよく引かれる。そしてその中でこのグーグルの一件は、強圧的な中国政府による反民主主義と人権弾圧の試みに対し、信念や原則よりも己の目先の利益を優先したグーグルが屈服し、自ら圧政の手先と化した例として批判的に言及されることが多い。グーグルは断るべきだった、そんな妥協をするくらいなら椅子を蹴っぽって中国に出るべきではなかった、というわけだ。
いま訳している『CODEバージョン2』でも、ローレンス・レッシグが類似の議論をしている。もし中国批判の部分を削除して『CODE』中国版を出そうと言われても断る、と。
これはかっこいい態度だとは思う。が、その一方で、それが本当に正しいかどうかは、議論の余地があるんじゃないか。
というのもグーグル批判者たちの大目標を考えよう。要するに民主主義なり人権尊重なりという考え方をもっと広めることだ。それが最終的に中国人民のためになる、とかれらは考えている。では、その大目標にもっとも資する選択は何かを考えてみよう。かれらは、完璧なグーグル(あるいは『CODE』)か、はたまた無か、という選択をしろという。でも、無は民主主義にも人権尊重にも貢献しない。活動家の自己満足に資するだけで、本来民主主義を広めたい相手である中国の人たちには何ももたらさない。
さて『CODE』は、民主主義の価値観とその意義を、シニカルで悲観的なぼくにすら納得させた名著だ。中国批判の部分を削っても、その価値のかなりの部分は残る。その検閲版を読んだ中国人の一部は、たぶん何かしら思うところがあるだろうし、それは未来の中国の民主主義実現に本当に貢献するはずだ。すると少なくとも中国人民にとって、検閲版の『CODE』すらないよりは、検閲版でもあったほうがずっとましということがいえるのでは?
グーグルでも同じだ。グーグルが広げてくれた情報世界はすさまじい。民主主義とか万人の知る権利とかを信じているなら、グーグルがそれに貢献したことは否定できない。そして検閲版グーグルでもその価値はかなり残る。あらゆるものが検閲できるわけじゃない。必ず何かは網をかいくぐって一部の中国人に届く。確かに検閲なしのほうがいいだろう。でも中国人民の立場からすれば、グーグルがまったくないよりは、検閲版でもあったほうがいいと思わないだろうか。特にグーグルの提供している/するであろうその他のサービスを考えたら?
いずれの場合でも、ぼくは何もないより検閲版でもあったほうがいいと考える。完全版を提供する道があるなら結構。でもそれが明らかに閉ざされていたら(閉ざされていなければそもそもこんな話は問題にならないはずだ)、そしてもし本当に中国人民に人権とか民主主義とかを広めることを重視するなら、大見得を切って交渉の席を蹴るよりも、忸怩たる思いをしつつも検閲を受け入れたほうがいいということになるだろう。
もちろんそれをやったら、良心的だが了見の狭い活動家連中から、寝返ったの悪魔の手先だの魂を売り渡したのとさんざんなことを言われるだろう(グーグルのように)。だがそれは甘受するしかない(弁明しても信用されまい)。買いかぶりかもしれないが、ぼくは案外グーグルはここまで考えていたのかもしれない、と最近少し思ったりもしているのだ。だがもちろん、それをぼくたちが知ることはないだろう。
近況:イスラムのラマダーン(断食月)が苦行というよりお祭り月なのだというのを知って驚きました。
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