山形道場 第 101 段

今月の喝:勤め先に責任はないでしょ。

(『CYZO』2007 年 09 月)

山形浩生

要約: 警官や会社員が不祥事を起こすたびに、勤め先の監督責任とかなんとか言われることが多いが、そんな責任はないはず。責任をとらせるということは、勤め先が職員のあらゆる行動やプライバシーを監視して口だしすることを認めるということになる。そんなのいやでしょう。国民も安易に責任取れとか言うべきじゃないだろ。



 これを書いている頃、おまわりさんがキャバクラの女の子に入れあげて、ストーカーしてつきまとったあげくに殺して自分も拳銃自殺する、という事件が起きた。悲劇的ではあるし哀しい事件ではあるのだけれど、その一方でついつい悪趣味な冗談のネタにもされがちな、よくある痴情のもつれ。三面記事以外にはなりそうもなく、すぐに忘れ去られる程度の事件だ。

 そしてそれに対して、これまたよくある光景ではあるのだけれど、勤め先である警察が、犯人である警官の身上管理ができていなかった、私生活を把握できていなかった、申し訳ない、今後はこのようなことがないように管理を徹底し、といったコメントを出している。

 これまたよくある光景だ。どっかの社員が何か事件を起こしたら、勤務先があれこれやり玉にあがる。それがその人物の業務とはまったく関係ない出来事であったとしても。社員が世間を騒がせた責任をとかなんとか。そして、世間様はそれがあたりまえのことだと思っているようだ。何もコメントがないと識者や野次馬が怒って見せたりする。

 でもぼくはこの手の話を見るたびに、ちょっと暗い気持ちになる。社員がプライベートでやったことまで、会社が責任を持てるもんか。そして、持ってもらってはみんな困ると思う。

 だって責任を取らされるということは、それを把握し、監視するのが当然ということだ。そうでなきゃ責任なんか取れないもの。世間様として勤務先にその手の責任だの謝罪だのを求めるということはつまり、会社や勤務先がその個人のありとあらゆる部分を見張り、監督し、命令するということを要求することだ。

 つまりこれは、プライバシーなんてものを一切認めるなと言っているに等しい。

 これは、かつてこの欄でも罵倒した岩井『会社はだれのものか』なんかで展開されている、会社や勤務先についての変な発想と相通じるものがある。会社は従業員のものだとか、会社は社会のものだとか。それはある意味で、会社というのを純粋に労働技能の切り売りの場としてとらえるのではない、もっともわもわしたキモチワルイ人間関係の場としてとらえる発想のあらわれでもある。

 それは要するに、会社とか勤務先というのを、何か一種の家族の延長みたいな形でとらえているのだ。子供や兄弟等が何か不始末をしでかすと、親や兄弟がでてきて謝ったりする。ぼくはあれも嫌いではある。なんで子供のやったこと(特に成人した子供の行為)について親が侘びにゃならんのだ。が、一方で、家族関係や血族関係には単純な合理性の範囲をこえた結びつきもあることはわかる。

 でも勤務先や会社は、そういうもんではない、はずだ。

 警察や、あるいはこの手の事件に巻き込まれた会社は、その後どうするんだろう。プライベートの行動について、いちいち報告をさせるんだろうか。社員がキャバクラに何回いったか、女中喫茶にどのくらい通っているか、ネットであやしげなことをしていないか、だれと交際し、家族とどんな関係にあり、なんてことをすべて調べあげるんだろうか?

 まあ実際にはそんなことはすまい。せいぜい「もっと親身に相談を」「飲みニケーションの深化を」といったキャンペーンを多少やり、上司が部下の悩みをきくような会議をいくつか設けたりする、そんなあたりだろう。それ以上はやりようがないもの。

 でも本当は、社員がプライベートで何かをしても、勤め先は関係ないと言うべきなのだ。そしてマスコミも、そもそも勤務先にコメントを求めたりしてはいけないとは思うのだ。たぶん多くの読者は、そうは思わないだろう。でもそれは、下手をすると勤め人(あるいは学生でも何でも)としての自分の自由を減らし、クビをしめる考え方だ、というのは忘れてはいけない。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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