山形道場 第 100 段

今月の喝ではなく考察:希薄化する人間関係と監視社会待望論

(『CYZO』2007 年 08 月)

山形浩生

要約: 前号に続き、もし人間関係の希薄化が有害で、それに対する公共政策が必要ということなら、たぶんそれは監視社会を促進することになるだろう。隣の人とは関係ないけれど、どこかからモニタでは監視されている――それが人間関係の代用品として機能するわけだ。やがて人は、監視されることに喜びとぬくもりを覚えるようになるかもしれない。



 前回、人間関係の希薄化を嘆く論調についてコメントしたのだけれど、人間が社会的な生物である以上、何らかの人間関係は保たざるを得ない。濃い人間関係に基づく相互扶助――そして相互監視――がいろいろな面で社会的なコストを下げているのも事実だ。それをみんながわずらわしく思うなら、それに代わる何かは必要だ。あなたがどういう状態にあり、どこにいて何をしているか、だれかが何らかの形で大まかに知っているような状況を作り上げることが必要になる。

 そして密な人間関係がそれを担えないのなら、それは監視社会というものがそれを担うしかないんじゃないか。みんなの嫌がる濃い人間関係を通じて各種プライバシーを相互に侵害しあうより、テクノロジーを通じてビッグブラザーにプライバシーを侵害してもらう。隣に住む人とは一切つながりがない。でも、どこかのだれかは何らかの形であなたを見ている。そんな状況だ。

 もちろんこれはまさに、従来のプライバシー議論が懸念する事態だ。プライバシー論の多くは、政府が個人のプライバシーを侵害することについて非常に心配する。だがちょっと考えてみると、それはそんなに問題だろうか。というより、本当にプライバシーが心配なのはどういう状況なのか考えて欲しい。あなたが自分のプライベートな情報として保持したい情報をいちばん知って欲しくない相手とはだれだろうか。政府か? たぶんちがうだろう。

 それは家族であり、ご近所であり、職場の同僚たちだ。あなたが、たとえば獣姦マニアだとしよう。どっかの政府がそれを知ったところで、別に気にする必要もない。それどころかIPがちゃんと記録されていると知っていても、あなたはいかに自分が羊三匹を陵辱して足腰立たなくしてやったとかいった話を平気で2チャンネルに書き込んで自慢する。それが自分の身近な人々に知られさえしなければ、人は自分のプライバシーを公開してしまう。ウィニーのきんたまウィルスで恋人とのハメ撮り写真が流出したとしよう。でもその写真をルーマニアの田舎の学生がたまたま見ても、多くの人はそんなに気にしないと思う。それがたいへんに嫌なのは、家族や同僚なんかの目にそれが触れる可能性があるからだ。それがなければ、監視されて文句を言う人はあまりいないだろう。いやむしろ、それを歓迎するようにさえなるかもしれない。

 いますでに人々は、自分の位置がかなり細かく補足されると知りつつも携帯電話を持ち歩く。常時用もないのに電話をかけあって、何をしているか報告しあう。目の前にいる相手との話より、かかってきた電話との関係のほうを重視する。それが発展したような形が将来的にはありえるんじゃないか。

 なぜプライバシーというのは重要なのか? 一つの説明としては、それは自分を脅すために使われる可能性がある情報だからだ。密な人間関係というのはある意味で、お互いが相手のプライバシーを握ることによってお互いを脅せる状況だ。それがコミュニティなり組織なりの絆を作り上げるし、コミュニティなり家族なりの用のためにその構成員を動員するだけの力を持ち得る。密な人間関係のわずらわしさはそういうところからも派生する。そうした部分をなくせるのであれば――そしてかつてのコミュニティが提供するような安全保障や社会のバッファ機能を技術的に提供できるなら、人は喜んでそうしたものを受け入れるんじゃないか。それが政府やらその他公的機関の監視に身を任せるということであっても。人はビッグブラザーの監視の中に喜びを感じ、監視されることに帰属感を(だが何への?)おぼえるようになる。逆に監視されていないことに不安をおぼえるようになる。そんな未来は十分にありえるんじゃないかと思うのだ。

近況:インドの山奥にきております。南インドのドーサとカレーも、一週間食べ続けると飽きるなあ。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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