要約: 国民生活白書が人間関係の希薄化に警鐘を鳴らしているんだけれど、でも多くの人は人間関係の濃厚さをいやがっている。人間関係が濃厚ということはプライバシーがないということだし、また近所の子供に声をかけたり家にあげたりするだけで逮捕される状況は、むしろ希薄化を促進するようになっている。
先日、「国民生活白書」なるものが出て、人間関係の希薄化に警鐘を鳴らしている。それが地域や経済に深刻な影響を与えるといって。何をいまさら、という気がしたのはぼくだけではないだろう。だってその「人間関係の希薄化」とやらは、まさにあなたたちが――つまりは当の国民自身が――望んできたことなんだから。
豊かで深い人間関係というと、聞こえはいい。友情、連帯、人と人とのつながり、信頼――共に悩み、ともに生きる社会のきずな。かっちょいい言い方はいくらもある。でも実際の深い人間関係は、多くの人にとって面倒なものだ。家族ほどうっとうしいものはないし、親友だと思っていたやつがいきなり新興宗教にはまってツボを売りにきたり。親しいということは、頼まれごともされるということだし、そのために金も時間も割かれるということだし、相手に気遣ってやりたいことも控えなきゃいけない。そんなのはみんな、面倒くさくていやなのだ。
そして、実際の社会も、そうした深い人間関係をひたすら阻害する方向に動いている。たとえば同白書では、家族、地域、職場での人間関係を問題にしているとか。地域の人間関係が強化されるというのは、他人が――ご近所のみなさんが――あなたの行動を監視し、詮索することを認めることだ。ご近所さんたちが、あなたの行動に対して意見し、口出しし、介入することを許さなくてはならない。あなたの所有管理する各種のアイテム――家や子供等々――に対して他人が手を出すことを認めなくてはいけない。でも現在ではそれは、プライバシーの侵害であり、他人の子供をしかってひっぱたいたら暴行で、人の子を家にあげてお菓子をあげても誘拐だ。だって実際にストーカーや変質者がいるじゃないか、本当に誘拐されたらどうすんだ、といきりたつ人もいるだろう。そう、まさにそういう配慮のために、人間関係は規範としても法制度的にもどんどん希薄化させられているわけだ。
職場でもそうだ。アンケートでは、みんな職場の人間ともっと親しくつきあいたいとのこと。でもこれも総論賛成各論反対。親しくつきあうというのは、プライベートな情報を相互に公開し、胸くそ悪い陰口やゴシップ、好きでもない上司や同僚との宴会、どこからともなくまわってくる縁談――そういうものも受け入れるということだ。でもそれだと「それは強制だ個人情報なんとかだ私的な行動への介入だXXハラだ自由とナントカ権の侵害だ」ということになり、裁判されて負ける。司法だって職場の人間関係の希薄化を後押ししているわけだ。
昔から、人間関係の面倒さは理解されていた。君子の交わりは水のごとし、と言われるのはそのせいでもある。君子だから交わりが水のようだ、ということでもあり、また交わりを水のように保つからこそ君子ヅラしていられる面もある。イエス・キリストは、自分の故郷の村では説教できなかった。聖書に理由は書いていないけれど、小林よしのりが初期の『ゴーマニズム宣言』で述べたように、かれですら昔の人間関係が濃いところで神妙に説教するのは恥ずかしかったにちがいない。
でも昔は、よほどの聖人君子以外はそうした人間関係がなければ生きていけなかった。大がかりなインフラ整備や災害対応には互助組織に頼るしかなく、そのためには人間関係を強めるしかなかった。そしてそれを考えると実は「国民生活白書」は因果関係をまちがえていることがわかる。いまは人間関係が希薄になったために社会に影響が出ているんじゃない。社会が変化して人間関係に頼らなくてよくなったからこそ、それが希薄化できるようになった、というのが実態なのだ。
みんなが望まず、制度的にも積極的に弱体化し、そして現実的になくてすむようになっているものを、本当に復活させなくてはならないんだろうか?
近況:インド人が「いい天気だ」と言ったらそれは雨が降っているということなのだと知りました。皮肉じゃなく。
前号へ 次号へ
『サイゾー』インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る