CYZO 2006/12号。表紙はかでなれおん 山形道場 復活第 ?? 段

今月の喝! 無意味な著作権期間の延長

(『CYZO』2006 年 12 月)

山形浩生

要約: 著作権をのばそうという変な動きがあるけれど、何の意味もないからやめようよ。死後70年なんて想像もつかない先の話をえさにしたってだれも動かないよ。



 しばらく前に、映画の著作権が製作者の死後五〇年から死後七〇年へと延期された。そしていま、その他すべての著作権を死後七〇年にまで延長しようという動きがある。

 やめようよ。意味がないから。

 権利には義務が伴う、とよく言われる。権利ってのは、社会的なお約束ごとなんだし、何か権利を認めることは、それに伴って社会に何かメリットがある、ということでなきゃいけない。ここで著作権を二〇年積み増したら、どんな義務が生まれるの? 社会にどんなメリットがあるの? 何もないんだもん。

 著作権は、要するにいまのクリエーターたちにやる気を出させるための手段だ、とされる。でも、多くの作者たちは、著作権を延長したところでその恩恵は一切受けることはない。しばらく前にアメリカで著作権を同じ話があって、違憲訴訟が行われ、最高裁までいった。そしてそこでボブ・ディランなんかが出てきて「いやあ、著作権が死後五〇年しか続かないと知っていたら、おれは六〇年代にあんな名曲の数々を書こうとは思わなかったよ」と証言して一部で失笑を買っていた。だって、そんなことあるわけないんだもん。

 いい? ここで問題になっているのは、いまから五〇年後とか七〇年後じゃない。あなたが死んでから五〇年後か七〇年後、という話。ぼくが書いたものの著作権は、今だと今世紀の終わりくらいまで続くだろう。ぼくがあと五〇年くらい生きて、その後五〇年続くんだから。さて、それが二一二〇年頃まで続くことになりますよ、と言われて、ぼくに何かいいことがあるか? 何もない。だってその頃にはぼくはとっくに死んでるもの。その頃の世界がどうなっているかさえ見当もつかない。そんな先の話を考えて、人は何か作ろうという気になったりならなかったりするだろうか。

 普通、しないだろう。全然関係ないだろう。作者の死後数十年も価値を持ち続けるものなんて、実はほとんどない。『世界の中心でナントカ』はすさまじく売れたけれど、あの著者が存命中の一〇年後だって、おそらくだれ一人として見向きもしなくなっているだろう。そんなものの権利をのばしたところで、何の意味もないのだ。

 では、作者の死後五〇年から七〇年に著作権の期間をのばして恩恵を受けるのはだれだろうか。それは著作権に寄生している一部の人たちだ。すでに故人となった作者の業績にたかって生きている、財団とか、あるいは子孫とか、そんな連中だ。作者と夫婦でしたとか、子供でしたとかいうなら、まあその作品を作るにあたって多少の苦労を共有しましたという理屈もたつだろうけれど、それだって限界がある。まして作者の死後五〇年だの七〇年だのいったら、もう孫の段階だ。何の関係がある? 別に著作権が切れても、別にその人たちの収入が完全にたたれるわけじゃない。その人たちに独占的な販売権がなくなるだけ。やりたければその人たちは、自分の手持ちの資料なり何なりを切り売りして小銭を稼ぐことは十分にできるじゃないか。古来、「子孫に美田を残さず」ということばがある。今回の著作権期間延長は、まさに子孫に美田を必要以上に残すだけの措置でしかない。

 著作権はその作者の基本的な人権であり、それを増大させるのは権利意識を高めることだ、なんていう世迷いごともきく。でも、ここでの議論は作者が死んだ後の話なんだから、そんなのも全然関係ない。結局のところ、延長してもいいことは何もない。先日、YouTubeから動画が著作権侵害を口実に大量に削除され、多くの動画――それはテレビにおける発言などの検証というきわめて有益な機能を果たしているものも多かった――が見られなくなってしまった。あれが起こりやすくなるだけだよ。

 だから、やめようよ。社会としては損になるばかりだよ。

近況: ブダペストにいったら、暴動のまっただなかに入り込んでしまいました。うーん、懐かしき催涙ガスの香り。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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