CYZO 2006/4号。表紙は相武紗季 山形道場 復活第 ?? 段

今月の喝! 『美しい景観を創る会』

(『CYZO』2006 年 4 月)

山形浩生

要約: 年寄りが古い基準で、勝手に人の建物その他に「悪い景観」のレッテル貼りをして、やれ看板が悪い、電柱が悪いと言っているけれど、それが100年たったらかえっていい風景に見えるかもしれないとか、俗悪な派手さは一方で都市のエネルギーの素直な表現として魅力にもなるという自分以外の基準に対する視点や想像力が皆無。伊藤先生、それじゃだめでしょ。



 ぼくは大学で伊藤滋先生にはお世話になったので、かれが親分をやっている「美しい景観を創る会」についてあんまり悪くは言いたくない。が、ここが出した「悪い景観百景」というのは、あまりに独善的でどうしようもない代物だと思うのだ。

 これが何かといえば、「醜い」(とこの委員会の面々が勝手に判断した)景観を日本のあちこちから集めてきて、あれこれケチをつけるという代物。挙がっているのは、お約束みたいな東京日本橋の上の首都高、電柱に電線、道路際の看板群、高層ビルから見た建物屋上の空調設備やタンク群、あげくの果てには繁華街のネオン群、そして銀座のマツモトキヨシが、風格がないとのご託宣。そして困ったことに、ここに挙がった多くの景観は、ぼくには特に醜いとは思えないどころか、一部は積極的に美しく、また力強さを持っているものが多いのだ。

 この会は特に新宿や渋谷のネオンや各種看板がお嫌いだ。確かに、自己主張が強い、色彩が派手。でも香港やタイムズスクェアの看板やネオンを考えてほしい。あれは俗悪だが、でもまさにその俗悪さが場所の魅力を作っている。持てる者が思いっきり自己主張をするという明快な論理が、見た目はごちゃごちゃかもしれない景観に、別種の秩序をもたらしている。都市というのは、外見だけの存在じゃない。その裏にあるエネルギーの秩序がそこに表現され、そして看板のめまぐるしい交代が見せる栄華必衰の様子に、日々変化する都市の様相は如実にあらわれる。そのエネルギーの魅力こそがまさに、繁華街を繁華街たらしめている魅力でもあるのだ。

 屋上の各種設備を、この会は醜いと言う。でもそこは、ある種の機能美だってある。やりようによっては、パリのポンピドーセンターのような魅力をも生み出し得るものであるはずだ。そして道路際の看板だって、本当にそんなに悪いか? 名著『都市のイメージ』などで都市デザインが持つ実用的な意味を指摘したケヴィン・リンチは、その後 The View from the Road という本を出して、高速道路を走りつつ次々に流れ去る看板も含めた景観は、醜悪だと言われるけれど実は美しいものだと唱え、むしろそれを豊かな体験にするための景観設計法を論じている。単純に「醜い」と断じるだけでいいのか?

 建築評論家の五十嵐太郎も、同じようなことを感じているようで、『論座』四月号(pp. 200-5) で苦言を呈している。かれもその中で、電柱電線、首都高など、「創る会」が醜いと決めつける要素が実はいまの日本のある種の風景美を構成する要素となっていると指摘している。その通りだと思う。もちろん、「創る会」に世代的なバイアスがあるように、ぼくや五十嵐にも世代的なバイアスはあるだろう。でも、これはこの時代に限った話じゃない。かつてのプラハ等の都市で、新ルネッサンス様式の建物が、醜悪だとしてボコボコに叩かれたりしたことがある。もう何世紀も前の話だけれどね。もちろん今や、そうしたかつて醜かったはずの建物は、美しいプラハの伝統的な町並みの一部として平然と軒を連ね、だれもそれを醜いなんていう人はいない。伊藤先生はそういう歴史を十分に知っているはずなのに。都市の美しさ――いやそれを言うならあらゆる美しさ――の歴史は、古い規範を後生大事に守ることではなく、むしろそれまで醜悪とされてきたものに慣れ、そしてそこに新しい美の規範を見つけ出すことで形成されてきた。千利休がとと屋の茶碗に美を発見し、音楽がノイズの中にロックの美を見いだしたように。この会は美しい景観を「創る」というんだけれど、ぼくはこの会の活動に「創る」部分をまったく見いだせない。そこにあるのは単に古い規範を温存しようとする懐古趣味の愚痴でしかない。

近況:最近、築後八十年以上の家に引っ越したので、古い建築や町並みの保存については言いたいことがいろいろあるのです。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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