山形道場 復活第 ?? 段要約: 身障者がかわいそうだから、なんか彼らにスーパーマン的な力を与えるような奇跡が必要だとか、現実的な解決策を考えるだけでは不足だと騒いでみたりする哲学者は決定的に想像力が欠けているし、そんなマンガみたいな奇跡が政治経済で実現できると思っている点でまったく常識が欠けているのだけれど、それをほめる人がいるというのもゲンナリさせられることではある。
こんな文章がある。
「ならば、尋ねよう。車椅子抜きでは動けない人間、人工呼吸器を使用する人間、病院や施設に拘束されている人間がいる。そんな人間の移動の自由を確保するために、何が必要になるかを諸君は真剣に考えたことがあるのか。(中略)そもそも、諸君は、自由と潜在能力について本気で考えてきたのか。いつだって現状の政治経済とのトレード・オフを口実にして誤魔化し続けてきたのではないのか。(中略)
われわれが願っているのは奇跡である。車椅子がスポーツカーよりも速く移動すること、医療機器がポータブルになること、指先の動きだけで意志が伝わること、目蓋の動きだけで武器を破壊できること、受肉の奇跡を肉体のいたるところで引き起こすこと、要するに、無力な者に力を賦与することである。われわれが為すべきは、こんな奇跡のために、政治経済を本気で変更することなのだ。」(*1)
さて、ぼくはこの文章を読んで失笑する。車椅子がスポーツカーより速く移動する? いやぁ、その車椅子に座ってる人はとんだ災難だ。目蓋だけで武器を破壊? 北斗神拳かっつーの。そして「こんな奇跡のために、政治経済を本気で変更すること」だって? あのー、ここに挙がってるのは技術の問題で、政治経済をいじってどうなるもんじゃないんですけど。
もちろん、これはあくまで例だ。でも、この文を書いた人はこの三文マンガみたいな「例」が説得力あると思ったわけだ。そしてそこから見える可能性は二つ。この人が思い描いている奇跡だの、政治経済の変更だの自体がマンガ以下の代物でしかないか、または自分だって自由と潜在能力について本気で考えてないのだ。書いてるその場で、貧相な想像力でこんな例を即席で、つじつまさえあわせずにでっちあげただけだ。
これを書いたのは、小泉義之というテツガクシャだ。テツガクシャがくだらない妄想しか紡げないといって責めるのは酷かもしれない。笑わせてくれだだけでもよしとすべきか。でもこれを真剣に検討すべき代物として自分のブログで引いていたのは、あの明晰な稲葉振一郎なのだった。
曰く「ここでいう『奇跡』を望むことはまったく正しい(中略)というのであれば、それはまったく首肯できる」「そのような『奇跡』の到来を本気で望むことなくしては、そもそも何のために「小手先の改良」をしているのかを人は忘れてしまい、結果「小手先の改良」さえ実現できないことになりかねない」とのこと。やれやれ。まあ稲葉振一郎は、この手の自己陶酔した哲学談義に弱いところがある。でもそれがこういうレベルで出てくるとは。
だって、ここでいう「奇跡」なんか望んじゃいけないのがわからないか。というより、そこで望まれる「奇跡」って何? 当の小泉すら自分が望んでる「奇跡」の中身をろくにわかってない。なんか漠然としたヘイワーとかビョードーとかジャクシャーとかいうお題目はある。でもその具体的イメージをまるで考えてないからこそあんな三流ギャグみたいな例を出して得々としてられる。そんな中身のないものを、そもそもどうやって望めと?
宮崎哲弥はかつてかれ流の仏教談義をもとに、通り魔たちは人生を諦めろという変な主張をしていた(*2)。でもこれを読むうちに、かれの主張を好意的に解釈できなくもないな、と思い当たった。何をしたいのかもわからんような具体性のない妄想にふけるのは、有害なのだ。そういう主張だと考えれば、かれの言い分も少しはわかる。そんな「奇跡」はあきらめろ。妄想でしかない「奇跡」を捨てて初めて、現実的な小手先の改良のありがたみとすごさがわかる。冒頭で引用した一文は、レーニンを誉めるという時代錯誤な文の一節で、ぼくも左翼だから気持ちはわからないわけじゃないんだけどね。でもこの手の奇跡を望むことこそが何よりはた迷惑で有害無益というのこそが、二〇世紀社会主義という壮大な実験のつまらない(でも重要な)教訓だったんじゃなかったっけ。
*1 小泉義之「無力な者に(かわって)訴える」、『別冊情況:レーニン<再見>』(状況出版 2005年9月) p. 322
*2 宮崎哲弥『新世紀の美徳』(朝日新聞社 2000)
近況:M2対談で、宮崎哲弥はぼくを進化生物学や社会生物学的な論者の代表に仕立てるのはやめてくれないかなあ。ぼくなどしょせんは小者ですしぃ。
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