CYZO 2005/02号。表紙は大久保麻梨子 山形道場 復活第 ?? 段

今月の喝! 社会的な優先順位づけを嫌う人々。

(『CYZO』2005 年 2 月)

山形浩生



 こないだ内分泌攪乱物質(環境ホルモン)シンポジウムなるもので、リスクコミュニケーションの話をちょいとしてきた。そこで感じたのは、やっぱりいろんな問題に優先順位をつけるとか、問題の規模を評価するというのについてずいぶん抵抗があるんだなあ、ということだった。未知の可能性が問題になっているときに、その規模だの重要性だのについて見積もりなんかとても出せない、と学者は言う。そして、その気持ちはとてもよくわかる。不確定な部分が実に多くて、たぶん誠実な人ほど軽々しくその手の見積もりを出すことに抵抗はあるだろう。でも……自分がそれについて何らかの見積もりを出さないと、それはだれか他人が判断することになる。それはたとえば、文科省や財務省なんかの予算担当官僚だったり、メディアの扱い規模を決める人だったりするわけだ。その人たちはまちがいなく、専門家より少ない劣った情報で判断を下すことになる。いい加減な数字を出したら責任がとれない、と良心的な学者は言う。でも、もっといい加減な数字に基づいて社会的な判断が行われるのを放置するほうが、罪は重いかもしれない。

 規模とかリスクを判断というと、まあたいがいはお金に換算するとか、あるいは人命に換算することになる。そしてそれ自体にも批判はある。世の中にはお金に換算できないものがある、とか。人命に換算すると、人命を持ち出したら誰も反論できないからフェアじゃないとか(こういう議論が本当にあるんだ)。でもそれはじつは、別に特別なことじゃない。みんながいつもやっていることだ。ぼくたちは日々いろんなものに優先順位をつける。時間や関心やお金を、それなりにやりくりしている。そして人命最優先とか口走る人だって、実はそんなことを実践していない。全財産はたいてその金をつぎこんだら、たぶん途上国の数百人の命が救えるクスリが提供できるだろう。でもそんなことはしない。そんな人命よりも、自分の目先の安楽な生活やネットや車やビールを優先する。そしてそれが身勝手だとはだれも思わない。人命だろうとお金だろうと(あるいは経済学者の言う効用だろうと)、人はふつうにそういう優先順位をつける。それを社会的に、明示的にやろう、というだけの話だ。

 そして評価とか優先順位というと、みんなAだけやってBは無視する、という話だと思いがちだけれど、でもそうじゃない。重みづけをするという話だ。環境ホルモンでも、狂牛病ことBSEでも、あるいは地球温暖化でも、人が問題だと思っているものはいろいろある。で、それが完全にまちがいというわけでもないし、何もするなと言いたいわけじゃない。ただとりあえず火急のでかい問題に取り組まなきゃいけないだろう。大きな問題には大きく、小さな問題には小さく、火急の問題には火急に、長期の問題には長期で取り組む。その判断材料を専門家が提供せずに、だれが提供するんだ? そしてそれが行われずに官僚その他の人々が判断を誤ったとき、その責任をその人たちだけに帰していいのか?

 ぼくは各種優先順位をつけるにあたり、官僚が完璧だとは思っていないし、ポカもあるけれど、でも全体としてはそこそこの仕事をしてきたと思う。ただそう思わない人もいるだろう。ネットに巣食うウジ虫ども(や佐高信みたいな無責任評論家)とかね。じゃあどういう優先順位とつければいいのか? 自分がたまたま関心ある問題を言い立てるだけで世の中がよくなるのか? たぶんこれから、環境団体とかがやらなきゃいけないのは、自分なりの優先順位を合理的に提示することじゃないか。その先駆的な試みを、『環境危機をあおってはいけない』のロンボルグが昨年、コペンハーゲンコンセンサスの名のもとに実践した。その結論には(まぬけな)批判も多いけれど、でもその手法は今後見習われるべきじゃないのかな。



近況:年末に香港に遊びにきていたら、インド洋のすさまじい津波。優先順位的には日本の地震と台風よりちょっとでかいな。また支出が増える。で、来月にはスリランカに出張だが大丈夫かなあ。



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