山形道場 復活第 ?? 段
もう二〇年も前だったか、渋谷陽一のサウンドストリートで、中国奥地のパンクバンド、ドラゴンズの「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を聴いたことがある。かれらは受信状態の悪い短波放送でセックス・ピストルズを聴き、「なんかとりあえずワーワー言えばいいらしい、これならおれたちにもできる」と言って、とりあえずワーワー言うだけのスゲー楽隊を作ってしまったのだった。
その後かれらがどうなったのか知らない。でももし当時かれらの手元にあるのが短波放送ではなく、ネット経由のファイル共有だったら。ノイズとフェージングまみれではなく、クリアな音でセックス・ピストルズを聴いていたら。そしたらどうだったろう。たぶん、かれらはわざわざ自分でドラゴンズを作らなかっただろう。そしてかれらのまわりの人も、できそこないのドラゴンズなんか聴くかわりに、本家本元のセックス・ピストルズを聴いただろう。つまりかれらには創造するインセンティブもなく、またそれを受容する市場もなかっただろう。
言い換えると、他人の文化的成果を自由にそのまま使えるようなコモンズができていたら、かれらの創造性が発揮されることはなかった可能性が高い。
さて、先日レッシグ『Free Culture』邦訳が出た。レッシグの主張は、文化は先人の成果をもとに積み重ねることで発展するものだ、ということだ。だから先人の成果を利用できる環境を構築しないと、文化は先細りになるよ、ということだ。だが、先人の作品を完璧にそのまま享受できる環境がいいのか? 冒頭の例は、必ずしもそうでないことを示している。もちろんそんな怪しげなドラゴンズなんてのが創造性の代表かよ、と思う人も多かろう。でもレッシグの主張する、豊かなコモンズに基づく創造性の世界は、「そんなの」がいっぱい出てくるのを前提にしているのだ。
実は最近、ちょっとした理由でレヴィ=ストロースをいっぱい読んでいる。かれもまた、独自の創造性なんてのがおとぎ話で、あらゆる創造は先人の成果に基づく、という話をしている。その部分を、ぼくは「Free Culture」解説の冒頭に引用した。でも一方で、かれはまさに上のような議論もしている。創造性というのは、概略が漠然と伝わる程度のコミュニケーション環境下で最も効率よく開花する。『はるかなる視線』収録の「人種と文化」でかれは断言する。創造性は、差別と不平等と排外主義の中から生まれるものだ。「他との完璧なコミュニケーションは、遅かれ早かれ、他者の、そして自分の創造の独創性を殺す」。かれの『神話学』全四巻もヒーヒー言いながら読んだけど、そこでの話もまさに不自由な故の多様性、そしてその多様性を貫く一貫した構造の抽出だ。
もしそうなら……みんなが自由に使えるコモンズは、最悪の場合、期待されているような創造性の強化にはつながらない可能性がある。もちろんだからといって、不自由さをひたすら増やせばいいということにはならない。なんでもかんでも著作権強化を肯定し、MP3のビットレートは15kbpsどまりにする規制を設けて短波放送並にしてやると社会の創造性がぐんと高まるということじゃない。レッシグ流にいえば、たぶん完全な自由と望ましい不自由との間に何かバランスがあるんだろう。たぶんその適正バランスは、今よりも規制を強化しない方向にあるとは思う。でも「人類が、かつて創造し得た価値のみの不毛な消費者となり、亜流の作品と粗雑で幼稚な発明だけを生み出すことに甘んじたくないなら」というレヴィ=ストロースの警告については、クリエイティブコモンズを推奨する一方で考えておく必要があるんじゃないか。そこでレヴィ=ストロースが提唱しているのは、よく考えるととうてい承諾しがたい恐ろしい内容ではあるのだけれど。
近況:それにしてもレヴィ=ストロース『神話学』の邦訳に四〇年以上もかかってるって、どういうこと? そんなに難しいのかと思ってこわごわ読んだら、単純明快で拍子抜けしました。英語からの重役でよければ一年で全部訳してやるぞ。
『サイゾー』インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る