CYZO 2004/08号。表紙は矢吹春奈 山形道場 復活第 ?? 段

今月の喝!、というより思案;M2の建前論と社会貢献識別。

(『CYZO』2004 年 12 月)

山形浩生



 前回の山形道場を読んだ宮崎哲弥氏からメールをいただいた。それによると、ぼくはM2たちの主張を誤解しているんだって。かれらは、ぼくの主張は十分に承知しているのだそうだ。もちろん国のリソースは有限だし、なんでもかんでも対応できない。そんなのは、言うまでもない前提としてあるのだ、という。でも二人が言いたかったのは、国ってものには理念や建前の上に成り立ってるんだから、自分は有限のことしかやらないよ、なんて言っちゃだめだ、ということなんだって。「全力をあげて救出にあたります」と口先だけは言うべきなんだって。そう言うだけ言えば、実際には何もしなくてもまったくかまわないんだって。

 なるほど。恐れ入りました。それなら話はわかる。しかも短期的には両方のいいとこどりができる、実に賢い戦術だ。結局はM2のほうがぼくより大人だ、ということだね。そういえば稲葉振一郎も、同じ主張をしていた。ぼくは四〇にもなったのに、この手の建前と本音の使い分けというやつがあまり好きじゃない。さらにこの使い分けをしすぎたせいで、いろいろ無理が生じていると思っている。でも、もうちょっと無理を重ねることは不可能じゃないだろう。

 ただし……まずぼくは、そういう発言の仕方は不誠実だとは思う。山形はだめで宮崎・宮台はえらい、と思っていた人の多くは、まんまとだまされていたわけだ。ぼくの主張を批判した人の多くは、「現実的には山形の言うことが正しいけど建前としてそれは言っちゃいけないのだ」と批判したわけじゃない。多くの人は、別に国が建前として何を言うべきかについて論じていたわけじゃないのだ。ぼくだって国のPR戦術を云々してるつもりはまったくなかった。宮崎・宮台が自分たちの味方と思っていた人の多くは、実は二人の本音があの権力の犬たる山形と同じだ、なんてことは夢にも思っていなかっただろう。

 かわいそうに。

 さらにある程度のリアリストである宮崎哲弥はともかく、ぼくは最近とみに観念論に傾き硬直の度合いを高めているように見える宮台信司が、建前として何を言うべきかなんてことを論じていたとはとても思えないのだけれど。

 さて、その後世の中はいろいろ進展があった。各国の人がどんどん人質にとられて、次々に首をちょんぎられた。その中で、あの日本人たちの待遇が突出して異様だったことは、みんな認識しはじめていると思う。さらにジャーナリストの橋田氏とその弟子が殺されてしまった。この二人に対する世論の扱いは、前の五人の人質たちとはかなりちがっていた。

 なぜだろう。一つはもちろん、人々がこのネタに飽きたから、だろう。さらにもちろん、死んだ人に責任を問うてもしょうがない、というのもある。かれらは社会が大したリソース使用をする間もなく、人として払える最大限の犠牲を払わされてしまった。今更何を言うべきにも非ず。

 が、それともう一つ。橋田氏がジャーナリストとしてそれなりの成果を挙げてきた人だ、という評価があるだろう。それに対して、あの人質五人は、何もしてないし、これからも何ら役にたつことはしないだろう、というのが多くの人の目には明らかだった。社会は全体として、人のフリーライダーぶりをそこそこ評価できるだけの能力を持っているのだ。もちろん、それは完璧じゃないから注意は必要なんだけれど、でも変にそれを否定することもない。いまダニエル・デネットの本を読んでるんだけれど、そこにも人は嘘つきやフリーライダーをかなり確度高く識別する能力を進化の過程で発達させてきた、という話が出てくるのだ。ぼくに対する批判の多くは「社会的に有用とか社会に寄生してるとか、どうやって区別するんだ」ということだった。でも、ぼくはそれが区別できないと考えること自体がかなり変だと思っているのだ。さてこのネタ、来月もまた続くかな。ではまた。



近況:身の回りのものが、テレビから時計からスーツケースから人間関係から次々に崩壊しつつあります。なんでだー!



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