山形道場 復活第 ?? 段
最近の連中は本を読まない、というのは年寄りのよくあるグチだ。近頃は、高校生、いや大学生でさえまともに本や新聞も読めない連中ばかりで、このままでは社会は字の読めるエリートとそうでない連中とに二分化されるだろう、と。文部省のゆとり教育がよろしくない、やっぱかつての受験つめこみ教育を復活させるべきだ、云々、というわけね。
その議論はそれとしてよくわかる。ただ、最近ちょっとそれ以外の情報伝達手段というのに目を向けるべきじゃないか、という気が少ししているのだ。
そのきっかけの一つは、ナディン『文盲の時代』という本を読んだことだった。この本自体は、あまりよくできているとは言い難い。この著者は、識字性と効率性、というものを対比させる。文字による情報伝達というのはあまり効率がよくない、と言う。学習に時間がかかるし、また十分に意思伝達をできるほどの読み書き能力を伝えるのは至難の業で、印刷物の相当部分はそのメッセージを目的の聴衆に伝え切れていないのだ、という。それに大して、いまの世界ではウェブでリンクをクリックしたり、ゲームをしたり、携帯電話で話したりできればだいたい生活の用が足りるので、苦労して文字なんかの読み書きを覚えないほうが効率的だ、だからこれからの文明は字が読めない人々が優位にたち、文字の時代は終わりを迎え、文盲の時代がやってくるのだ、というすごい議論。マンガとかゲームとかがかなり文字に依存している、という認識がまったくないし、携帯電話のコミュニケーションの相当部分は文字ベースでもあるし、だいたいかれが挙げているものが、文字なしで成立するわけがない。日本は識字率が高くて経済成長をとげた、という議論について、かれは日本は TQC をやったおかげで経済成長をとげただけ(だけ!!!)で、識字率は関係ない、というめちゃくちゃな議論をする。文字なしで TQC ができるとでも思ってるんだろうか? そしてTQCだけで経済成長ができるとでも? 文字情報による伝達とそれ以外による情報伝達効率をまともに比較していないのが致命的だ。
こんなふうに、本としてはとても粗雑なので、このものすごい分厚い本(厚さ20センチくらいある)を読む価値はほとんどない(ちなみに本書の全文はオンラインでフリーで公開されている。ある意味でフリーなテキスト配布でも収益を確保するには、こういう長くてとても全文印刷できないような本を書けばいい、ということかもしれない。が、それは余談)。ただ一つだけ、文字に依存しないで文明というのが可能になるかもしれない、という発想だけは、ちょっと頭の片隅にとめておいていいかもしれない。
絵とか、マルチメディア的な編集とか、ビデオとか、文字以外の素材を使うための道具立てはすでにかなりそろい始めている。そしてわれわれの情報需要のかなりの部分が、漫然と見るテレビとかから入ってきているのは事実なんだ。そうであるなら、そろそろもう少し系統的な画像や音楽の構成や文法についての教育というのも必要じゃないか? かつては情報伝達の大きな部分は文字が担っていた。でも今はちがう。だったらそれにあわせた教育の優先度も変化したっていいんじゃないかと思う。SF作家J・G・バラードが述べるような、世界に革命を引き起こすホームビデオなんてのがあり得るんじゃないか。いま学校教育では、図画工作・音楽なんてのがそれを担っているはずなんだけれど、でもそれは自己表現とかいうくだらないオナニーにこだわっていて、本当の意味での情報伝達としての絵や音楽の可能性を活かしていない(文字教育のほうでも、日本の場合それはほとんどできてないけど)を考えるべきじゃないか。それがうまくできるようになったら、文明は本当にちがった段階に到達するかもしれない。
近況:来週、久しぶりに日本に帰ります。日本は寒いそうで、とても心配ではあるのです。
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