山形道場 復活第 ?? 段
しばらく前に「創造的都市」なる本を読んだのだ。別に特に薦めたい本ではないので、誰の本だとかいう話はどうでもいい(調べりゃわかる)。この本は要するに、創造性を発揮すればいろんな都市発展や都市再生が可能ですよ、という本だ。そしてそれを裏付けるべく、創造性を発揮して成功した都市の例があれこれと載っている。セコイのもあるし、すごいのもある。全体としてはまあなるほどな、という感じ。その主張自体も、間違っているとは思わない。確かに、コロンブスの卵的な発想や、目先の変わった試みで都市が一変することはあるだろう。あるんだけど……読みながらぼくは、結構途方にくれてしまったのだ。そりゃ創造性を発揮すれば、だれも考えなかったことができるし、新しい道も開けるだろう。でも、創造性ってどうやって発揮するの? そうやって誰も考えなかったことが思いつけてできること、新しい道を開けること、そういった能力自体を創造性って言うんでしょうに。創造性を発揮すれば、なんて言うのは、それこそトートロジーでしかない。
そしてぼくは、本書を読みながらふと思ってしまったのだ。創造性があふれてうなっている人であれば、そもそもこんな本を読まなくてもいいはずなのだ。どんどん自分でいろんな創造的なことができるはずだろう。こういう本を読むということは、往々にしてその人にそんなに創造性がない、ということなのだ。人は自分に不足している創造力を補うべく、何か参考にできる(つまり非創造的にまねできる)ものがないか、と思って本なんかを読むわけだ。
ただ、それがいけないか、ということなのだ。
まあもちろん、この本だってある程度はその問題を認識している。単に「創造力を発揮しましょう」とあおるだけじゃない。一応、どうすれば創造的な都市作りができるか、という話はあるんだけれど、でもそれは結局、住民参加を積極的に進めましょうといった程度の話に落ち着く。うーん。三人寄れば文殊の知恵、とはいうけれど。でも、集団で創造力を発揮するのはなかなか大変だ。なんだかんだいいつつ、ある程度以上の人間が集まると、話が収集つかずにまったく進まなくなったり、また進んだとしても最大公約数的な、いちばん無難な(つまりは創造性のない)ものに落ち着きがちだというのはよくあること。
もちろんこれは、「傑出した個人による才能」というよくあるお話しに多少は傾いている。そしてもちろん、創造というのは、ゼロから何かを作る話じゃない、という議論もぼくは当然知っている。クリエイティブ・コモンズの議論はまさに、人は模倣や援用から創造するのだ、ということだった。そして、そういう形で材料を増やせば、創造物もたくさん増えるはず、ではある。でもその一方で、ぼくはなんか、創造物だけに的をしぼった議論は弱いんじゃないか、という気が最近ちょっとしている。本当に強力な創造力を持った人には、やっぱかなわないな、という思いを最近何度かしたせいもある。そういえばぼくが最初期に雑誌に書いた文は、人はみんながみんな創造力なんか持ってないし、だからこそ、マックの切り貼り機能があんなに高い評価を得たのだ、ということだった。創造はすばらしいという議論をする一方で、独創性のなさとか、つまらなさを称揚するような議論があり得るんじゃないか。称揚しないまでも、模倣や独創性のなさを助ける、それを肯定しないまでも、そういう人々を積極的に助けるような、なんかそういう方向性が必要じゃないか、と最近思うようになっている。もちろん、それはたとえば冒頭で述べた「創造的」な(たとえば)都市問題の解決にはつながらないかもしれないんだけれど……
近況:日本にほとんどいないので、日本で何が起きているのかさっぱりわかりません。北京でぼったくりバーにあってしまいました。
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